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おじいちゃんの告別式で感じた事を書いてみた

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 ※写真はフリー素材です。

 

7月某日。僕の父方のおじいちゃんが亡くなった。そのちょっと前から「おじいちゃんがそろそろ危ないかもしれない」そんな報せを父の兄、つまり僕のおじさんからうちの家族は聞いていた。なので、「おじいちゃんが亡くなった」という報せを聞いたときにはあまり驚きはなくて自然と受け入れることができた。もちろん、悲しいとか寂しいという気持ちはあったけれどボロボロと大泣きをするといったこともなかったし、覚悟はできていたのだろう。僕も僕の両親も淡々とそのことを受け入れたという感じだった。

 

報せを受けてから数日後。僕はおじいちゃんの告別式に向かった。おじいちゃんは僕の家から新幹線で2時間弱の某県に住んでいて、そこは父の実家でもある。告別式はその日の10時ごろだったので、僕は前日には支度を済ませその日の朝の5時半ごろには姉と共に家を出て、おじいちゃんが待つ父の田舎へと向かうことにした。

 

新幹線に乗りながら本を読んだりスマートフォンでニュースを見たりしながら合間合間におじいちゃんとの思い出を少し振り返っていた。

 

物理的に遠いということや、僕自身学生時代には部活などで忙しかったこともあり、頻繁に会いに行っていたのは小学校卒業ぐらいまでだったと思う。それ以降おじいちゃんと会う回数はめっきり減り、亡くなるまでにあったのはほんの数える程度であった。もっと会いに行けばよかったと今更ながら後悔している。いつだって後悔するのはもうどうすることもできなくなってからなのだ。

 

小学生の時父の里帰りで姉と僕が一緒に父の実家に帰った時、おじいちゃんや僕のおじさん夫婦、その子供たち(僕のいとこ)は僕たちの事を温かく迎えてくれた。

 

おじいちゃんは背は低かったが、がっしりした体格をしていて優しい笑顔をしたおじいちゃんだった。もう20年ぐらい前のことなのではっきりとは覚えてないが「○○ちゃん、よく来たね。」とニコニコしながら迎えてくれたのをよく覚えていている。遠くに住んでいる孫が来てうれしかったのだろう。たくさん美味しいものを用意してくれて「食べれ、食べれ♪」とすすめられたのもなんとなくではあるが記憶している。

 

そんなおじいちゃんとは大人になってからそれこそ数回しか会わなくなっていた。子供の時の「がっしりした体格のおじいちゃん」という印象だったが、やはり年数がたてば少しずつ体もよわくなってくるものだ。「おじいちゃん、なんだか小さくなったな。」

いつだかあった時にはおじいちゃんの後姿を見ながらそんな事を思っていた。

 

そんなおじいちゃんは晩年になると認知症を患い、最後には家族の事も良く分からない状態になっていたようだ。やっぱり年齢を重ねると認知症になる可能性は高くなるのが現実だ。僕の勝手な想像だがおじいちゃんの認知症が進んだのは数年前におばあちゃんを亡くしたことだと思っている。

 

おじいちゃんはおばあちゃんの事を「天使のような人だった」というほど愛していた。僕はおじいちゃん以外でパートナーを「天使のような人」と表現した人を見た事もきいたこともない。おじいちゃんにとっておばあちゃんはそれほどキラキラした美しい存在であったのだろう。

 

そんなおばあちゃんに先立たれてしまったのだから相当ショックだったに違いない。おばあちゃんが亡くなった時に見たおじいちゃんはがっくりと肩を落としショックの色を隠せないようだった。

 

60年以上連れ添った最愛の人に先立たれてしまうショックはいかほどのものだったのだろうか。僕には想像することも出来ない。

 

それまではおばあちゃんのお見舞いなどで気を張っていた部分もあっただろうが、おばあちゃんがいなくなってからはやはり張り合いという物をなくしてしまったのではないだろうか。僕が直接見たわけではないが父親がおじさんから聞いた話ではやはり少しずつ認知症は進行していったようだ。もちろん、年齢を重ねたというのもあるだろう。

 

そんな事を考えていたらあっという間に新幹線は目的地まで到着した。こちらの方が暑いということを聞いていたので覚悟していたのだが、駅から出るとまだ午前中ということもあり意外と涼しかった。駅でタクシーを拾い告別式が行われる葬儀場に向かう。だいたい20分ぐらいだっただろうか??道路も特に混んでおらずスムーズにたどり着くことができた。

 

「あっ、この葬儀場、おばあちゃんの時と一緒だ」

 

葬儀場に着いたとき僕はすぐに気づいた。数年前おばあちゃんの葬儀を行った時と同じ場所だったのだ。駅から葬儀場に来るまでの町並みはサッパリ覚えてなかったが、葬儀場だけはなぜか鮮明に記憶していた。

 

エレベーターで3階に上がり僕らは遺族控室に入った。控室にはおじさんと先に来ていた僕の両親がまっていた。葬儀の開始までしばらくあったのでおじさんに挨拶をししばらく控室で待つことになった。

 

「おじいちゃんの姿を見たいな」僕は父にそう告げた。「そうか。じゃあ挨拶しようか。」と控室の隣にある葬儀会場に行った。親族のみの告別式にしたため必要最低限のお花などが供えられた中におじいちゃんの棺はあった。棺の向こう側には在りし日のおじいちゃんが笑顔で映っている遺影が置かれていた。まだ元気だったころのおじいちゃんの姿だ。その光景を見た時に改めて「ああ、おじいちゃんは亡くなったんだな」と思った。

 

いやっ、改めてと言うよりも亡くなったという現実をはっきりと認識したといった方がいいだろうか。埼玉からこの会場に来るまでの僕はどこかぼんやりしたというか、まだおじいちゃんが亡くなったのだという感じがしていなかったのだ。でも、遺影を見て葬儀会場を見た時に嫌でもその現実を認識させられることとなった。

 

ただ残念ながらこの時点ではおじいちゃんの姿を見ることは出来なかった。すでに棺は閉じられていて開けることができなかったからだ。

 

「あとでお別れする機会があるからその時に。」

 

父は僕にそう告げると二人で遺族控室に戻った。その後、しばらくして僕のいとこ夫婦とその子供たちも集まった。葬儀に参加するのはこれで全て。

 

時間になったので、僕らは隣の葬儀会場へと移動した。

 

葬儀会場ではお坊さんがお経を読み、お線香をあげ淡々と葬儀は進行していった。そして、遂におじいちゃんと対面する時が来た。用意されたお花をおじいちゃんの棺に納め最後のお別れをするためだ。

 

それまで閉じられていたおじいちゃんの棺を葬儀会社の人が丁寧に開けてくれた。

「ギィッ。」ゆっくりと棺が開かれると中にはおじいちゃんが眠っていた。既に周りにはぎっしりと色とりどりのお花が詰められていた。おそらく前日のお通夜の際に入れたのだろう。

 

僕はおじいちゃんの顔をしっかりと見ながら棺の中にお花を入れていった。おじいちゃんは目を閉じ静かに眠っている。ただ、ショックだったのはおじいちゃんの顔がすごくやせ細っていたことだ。僕は遺影に映るおじいちゃんの顔を勝手に想像していた。小さいころ僕を笑顔で迎えてくれたおじいちゃんの顔、笑顔で肉付きのいいおじいちゃんの顔がそこにあると思っていた。

 

「おじいちゃん‥‥‥。」

 

現実と思い出のおじいちゃんとのギャップ、これまで会いに来なかったことへの後悔、おじいちゃんへの感謝の気持ち、二度と会えないという悲しさ、寂しさなど色々な感情が入り混じったのだろう。

 

僕の目には気が付くと涙があふれていた。正直棺を開けておじいちゃんの顔を見るまで泣くなんて想像もしていなかったのに‥‥‥。ある程度おじいちゃんが亡くなったことを受け入れていたと思っていたのに。

 

さすがに声を上げることはなかったが涙がボロボロと僕の目からあふれてきた。ハンカチでぬぐってもぬぐっても涙はとまることがなかった。おじいちゃんの事を直視すると涙があふれてくるのでしばらく壁の方を向き、ハンカチでひたすら涙をぬぐった。ハンカチは僕の涙でぐっしょりぬれた。

 

1~2分ぐらいたってようやく少し涙がおさまったので改めておじいちゃんにお別れを言うため棺に近づいていった。おじいちゃんの棺にはお花がぎっしりと詰め込まれていた。改めてみるとやせ細ってはいるが安らかな穏やかな顔のように見えた。最後は静かに息を引きとったと聞いているので苦しまないでよかったのかもしれないとも思えた。勝手な想像ではあるのだが。

 

「天国で天使と仲良くね。」

 

棺が閉じられる時におじいちゃんに心の中でそう挨拶をした。あの世や天国なんてものが本当にあるかどうかなんてわからない。たぶん死んだら何もないのかもしれない。僕もぶっちゃけ死んだら何もないと思っている。

 

それでももしもそういう世界があるとするならばおじいちゃんには愛する天使(おばあちゃん)が待つであろう天国へといってほしい。そして愛する天使と素晴らしい時間を過ごしてほしい。そんな事を思った。

 

その後火葬場へ行き改めておじいちゃんとお別れをした。火葬されるまでしばらく時間があるのでいったん葬儀場へ戻りお昼を食べた。その後火葬され骨となったおじいちゃんと再び対面した。もう、おじいちゃんの姿はどこにもない。そこにあるのは骨だけだ。太くて立派な骨。頑丈だったおじいちゃんの骨だ。

 

その姿を見た時も少しショックだったけど涙は溢れなかった。「骨になっておばあちゃんと一緒の墓に入るんだ」と思ったからだ。悲しくもあり寂しくもあったけど「おじいちゃんがおばあちゃんと再会したらなんていうのだろう?」なんて事を想像したら少し寂しさが紛れる気がした。

 

骨壺にみんなで骨を収め葬儀は終わりを迎えた。葬儀場でおじさんといとこ家族とお別れをし僕ら家族はそのまま埼玉へ帰った。早起きをしたことや慣れないことで緊張したせいもあったのだろう。帰りの新幹線の中では急激な睡魔に襲われ、かなりの時間を睡眠に費やした。

 

最後に

会える人がいるというのは幸せです。でも会える会えると思っているうちに人はあえなくなってしまいます。今回僕は「いつか会おう」と思っていたおじいちゃんと亡くなるまで会うことができませんでした。そしてそのことを後悔しています。

 

なので、もしこの記事を読んで「誰かに会いたい」と思っている人がいたらぜひすぐにでも会いに行ってください。家族でも、友達でも、恋人でも、知り合いでも、尊敬するアーティストでも誰でもいいんです。(アーティストならライブとかね)

 

会いたいと思っている人がずーっといてくれるとは限りません。会いたいと思った時には既にいないなんて事が起こるのが悲しいけれど現実です。いつ何が起こるかなんて誰にもわかりません。そうならないように、僕のように後悔しないようにしてください。もしくはすでに後悔している人がいるのならこれ以上後悔しないようにしてください。

 

「会いたい人に会う。」

 

そこに理由はいりません。会いたければ会いましょう。一人でも多くの人が会いたい人に会えることを願っています。

 

それでは今回はこの辺で!!

最後までご覧いただきありがとうございました!

次回もよろしくお願いします!