久々に僕のブログにコメントをいただきましてね。それについて、コメント欄で返そうと思ったんですけど、長くなりそうだったのでこちらで改めてブログに書こうと思いました。で、そのコメントですが、下の投稿のコメント欄に書き込まれたものだったんですよね。
この投稿で僕は、「稼いだり働いている人間だけが価値があるという考え方があまり好きじゃない」ってことと、「何に価値を感じるかは人それぞれだし、色々な価値提供の仕方があるんでないの?」ってことを書きました。まぁ、興味があれば元の記事もちょろっと読んでみてください。
※ただ、コメントに関して人によっては、ちょっとネガティブになっちゃう人もいるかもしれないので、ちょっとしんどいなって人は見ないようにしてください。
他人に何かを提供できるか否かで人の価値を決めるのは苦手
で、その投稿に対してついたコメントを、かなり短くまとめると、「他人に提供できるものがない場合は、何の価値もない人間ではないですか?」というものだったんです。実際に書いてもらったのはもっと具体的なんだけど、ちょっと言葉として強い気もするので、かなりざっくりと紹介してます。
で、繰り返すけど僕個人としては、「何かを提供できるか否か、働いているかいないか、生産性があるかないか」みたいな形だけで人の価値のあるなしや、大小を決めるのは好きではありません。むしろ苦手です。
社会的に評価される、わかりやすい指標や行動だけが、その人の価値ってわけじゃないでしょう。実際に、接してみて初めてわかる良さもあったりする。いるだけで何だかホッとするみたいなのだって、その人の価値だったりするわけじゃないですか。でも、それは社会的には評価されないし、数値としても出てこないですよね。すると、それは価値がないことになってしまうわけです。
なんつーか、ある人を分かりやすい評価の枠組みに当てはめて、そこだけでその人の価値を判断しようとするのが、苦手というかすげぇ単純だなぁと思うんですね。いやっ、人間もっと多面的だし、その人の価値だって多面的に評価されるべきだろうと思うわけです。まぁ、実際はできないから、分かりやすいもので人の価値を図ろうとしちゃうんでしょうけど。
そういうわけで僕は何かを提供したりとかそういうのだけで、その人の価値を決めるのは嫌だなぁと思うわけです。っていうか、価値がある人、ない人みたいな人の分け方が好きじゃないです。
自分の元の投稿を改めて読み返して
僕の考えはそんな感じなんですが、改めてコメントをもらった元の自分の投稿を読んでみると、あちゃーって思いました。元の投稿で僕が「こういう価値提供の仕方もある」と例を出したのが、お金はもらってないけどYouTubeで、動画を投稿してコメントもらったり、評価されている人だったんですね。これは、完全に挙げた例を間違えてたなと。
動画投稿で評価される人なんてどっちかと言うと「分かりやすい価値提供をしている人」じゃないですか。動画の視聴者とかコメントとか数値化されてるし。まぁ、一応動画投稿でお金はもらってないという条件付きで例として出してはいるけども。いやぁ、すんません。何でこういう例を挙げたのかなぁ。完全に矛盾してますね。
で、多分コメントくれた方は、僕が挙げた例をみて「結局なんかわかりやすいものを提供できなきゃ価値ないってことじゃん」って思って、コメントを残してくれたんだと思います。これは、僕の書いた内容が良くなかったです。ごめんなさい。
ぶっちゃけもう6年も前の投稿なので、当時の僕がどういう考えだったのかは曖昧ですが、僕の意図としては「バリバリ働いて稼ぐみたいな、分かりやすい価値だけじゃない価値もあるし、そうじゃなくても人にあげられるものもあるよ」ってことを言いたかったのだと思います。それこそ、その本人が価値があることだと気づいてないことすら、誰かからすれば価値になることもある。いるだけでホッとするとか、何か悩んだ時に話しやすいとかそういうもの。だから、「自分は皆から無価値だと思われてる人間だ」とか「何の価値も提供できない人間だ」なんて思わなくていいんじゃないの?ってことを言いたかったんじゃないかと。
本人が気づいてないだけで、色々な価値提供の仕方があるし、色々なことに価値を感じる人がいる。だから、分かりやすい指標に乗っかれない自分を責めなくてもいい。そんな考えだったと思います。
それでも価値を提供できない人について
ただ、それでもこう思う人はいると思います。そういう価値すら提供できない場合どうなのかと。それこそ、僕のブログにコメントくれた方なんかはまさにそういう疑問を持っているのだと思います。
僕の考えを言えば、別に価値なんか提供できなくても、その人がその人なりに楽しく生きていればそれでいいじゃないかと。
社会で働くことが難しいのであれば、福祉を活用して生きていけばいい。うまく人の力を借りながらやっていけばいい。できないところは誰かを頼り、もし自分にできることがあれば力を貸せばいい。人によっては困り事の数が多かったり、その度合いが強ければ人や制度に頼る割合も増えるでしょうが、僕はそれでいいと思います。頼ることを躊躇して、困ってる人が困ったままでいるより、少しでも生きやすくなってくれて、人生を肯定できたほうが嬉しいです。
それに価値ある人間にならなきゃ意味がないとか、価値提供しなきゃ存在できないみたいなのは、今、社会的に評価されている人、そうでない人、若い人、年老いた人、病気の人、健康な人、誰にとっても息苦しいはずです。そんな条件付きの生を誰が望むんでしょう?それは自分たちで自分たちの首を絞めることにはならないでしょうか?だって、いつ誰が価値を提供できない人になるかなんてわからないでしょう?怪我や病気もそうだし、歳をとって認知症になったり、思うように体が動かない人だっているわけで。
僕の親戚には歳をとって施設に入った人もいるし、子供の頃から障害持ってて、大人になってからずっと施設で暮らしている人もいるのでなおさらそう思いますね。
最後に
そんなわけで今回は僕のブログにコメントをしてくれた方へのアンサー的なものを書いてみました。大晦日にちょいと重たいテーマのことを書いてしまいましたが、昨日(12月30日)頂いたコメントなので、できたら今年のうちに回答しておきたいなと思って、このタイミングでのブログ投稿となりました。はたしてアンサーになっているのかわかりませんが、今の僕はこんなふうに考えております。
なんかきれいごとのようにも聞こえるなぁと、書いている自分でも思ったりもするし、実際きれいごとなのかもしれない。社会はわかりやすい価値で人を判断しがちだし、僕だってニュースやらなんやらで、わかりやすい実績やら数字やらを残した人を見て、「すげぇなぁ」と思うし比較しちゃうしね。僕なんか今年はひたすら大谷すげ〜って言ってましたよ。で、ふと我に返って何もない自分を情けなく思ったりね。
それでも、そういうわかりやすいものだけが人の価値じゃないって思いたいっていうのがあります。他人が気づいていないもの、自分が気づいていないその人ならではの価値ってあると思うんです。
えっ、負け惜しみじゃないかって?そうかもね。でも、いいじゃないですか。負け惜しみだって。それで、前向けるなら、自分に力を与えてくれるならそれでいい。
後は、やっぱり他人から見た時の価値みたいなもんを気にしすぎず(気にしちゃうのはしょうがない)生きていこうぜって思います。
ああ、なんかまとまりが無い締めになっちゃいましたが、この辺で締めたいと思います。それではまた。