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『この世界のさらにいくつもの片隅に』戦時下で普通の人たちはどう生きたのか?

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先日、片渕須直監督の『この世界のさらにいくつもの片隅に』を観た。元々2016年に『この世界の片隅に』が上映されたが、本作はさらに40分程度の新たな場面を加えて2019年の12月に公開されたものだ。

 

 

本作について

本作はこうの史代さんの『この世界の片隅に』の漫画が原作だ。映画版は片渕須直さんが監督と脚本をつとめ、制作はアニメ制作会社MAPPAである。

 

第40回日本アカデミー賞最優秀アニメーション作品賞、第90回キネマ旬報ベスト・テン日本映画第1位、第71回毎日映画コンクール日本映画優秀賞など数々の賞を受賞している。

 

『この世界の片隅に』と『この世界のさらにいくつもの片隅に』は、両方観ると比較ができてより楽しめるが、2作観るのはなかなか難しい人もいると思うので、ここでざっくりそれぞれの作品の特徴を述べておく。(物語の核の部分は変わらないのでご安心を)

 

まず、前者は主人公のすずも含めた戦時下の人々の生活を幅広く知れる作品。後者は、すずと他者との交流シーンがかなり追加されているので、戦時下を生きたすずという1人の女性の日常やその想いによりフォーカスされていると思う。また、細かいシーンが加わることで、劇中の繋がりという部分ではよりわかりやすくなっている。(わかりやすくなることへの批判もある)

 

あらすじ

ここからはざっくりとしたあらすじを。主人公は浦野すず。すずが18歳の時、広島の呉の北條家から縁談の話が持ち込まれる。縁談を受けたすずは北條家の周作と結婚し、呉にある北條家で生活を始める。

 

すでに太平洋戦争に突入し、徐々に戦況が厳しくなっていく中、すずや北條家の人たちは戦時下の日常を生きていく。

 

※この先はネタバレありです。

戦前、戦中の日常を追体験できる作品

本作の魅力の一つは「緻密に再現された日常」だと思う。舞台となる広島市や呉の街並みから人々の服装、当時流行っていたもの、使われていた道具やそれを使う人々の所作まで細かく再現されている。この見事な再現によって、映画を観ている僕らは主人公のすずや周りの登場人物たちが、確かにこの街で生活をしていたことを実感し、彼らの人生に触れることでその日常を追体験できるというわけだ。

 

で、これ何が大変かというとまず広島という場所。ここはご存知の通り原爆によって破壊された街だ。原爆ドームのような象徴的な建物は残っているが、戦中にあった街並みっていうのは今はもう残っていない。それを細かく再現するのはかなりの労力を要する。資料なんかは原爆や戦火の中で、消失してしまっているものもある。年月も経っているから当時のことを知っている人も少なくなっている。

 

ただ、片渕監督はそういうところで妥協しない。そのこだわりはすごい。本作に中島本町という場所が登場する。ここは、広島市の中心部の街で、そこに大津屋モスリンという店がある。といってもお話の舞台になるとかではなく、あくまで街並みの一部として描かれる。ところが、2016年の『この世界の片隅に』の時は、まだどういう店のデザインだったか不明だったので、推定で描いていたそうだ。ところが、『この世界のさらにいくつかの片隅に』を作るにあたって、当時の写真が出てきたのでそれを反映させている。映画を公開した後も、資料を探したり人に話を聞いたりして、当時の街や人の生活をより正確に再現していく。こうした細かいこだわりや「当時の広島や人々の生活を再現するんだ」という執念が、本作に登場する人物たちの生活にリアリティを与えている。

 

なので、本作に興味がある人はストーリーだけじゃなく、街並み、ちょっとした人々の所作や、そこに置いてある物まで注意してみてほしい。「戦時中はこういう生活だったんだな」というのが実感できるとともに、「こんな細かいところまで‥」という作り手のこだわりが感じられるはず。これだけでも僕はもうすげぇなぁと感動してしまった。

 

自分が別の誰かの立場だったのかもしれない

もう一つ、僕がこの映画を観ていて思ったのは「自分は誰か別の立場だったのかもしれない」ということだ。どういうことか。

 

例えば、主人公のすずは闇市に買い物行って遊郭に迷い込むというエピソードがある。そこで、出会ったのが白木リンという女性。リンはどこかおっとりしていて、年齢も近いということもあってかすずと仲良くなっていく。

 

ところが、後にある事実が発覚する。すずの旦那さんである周作が実はリンと恋仲のような関係であったことが示唆されるのだ。「自分はリンの代わりに周作の嫁になった」という事実にすずはショックを受ける。ここではすずとリンの立場が逆になっていた可能性が考えられる。

 

あるいは別のシーン。すずは同居する義理の姉の娘である晴美と出かけた際、不発弾が近くで爆発してしまい、晴美は死亡しすずは晴美と繋いでいた右手を失ってしまう。そして、終戦後。戦争を生き延びたすずと周作夫妻は広島の駅である少女に出会う。その少女は原爆で母親を失うのだが、その母親もまた右腕を失っているシーンが描かれる。少女は母親と同じく右手がないすずに寄り添い、夫妻の養女となるのだ。これは、すずが原爆で亡くなった少女の母親の立場になっていた可能性もあるということを示している。

 

他にも本作には、ちょっとした違いで死んだり生きたり、怪我をしたりしなかったり家が壊れたり残っていたりみたいなケースがたくさん出てくる。そうしたものを見ていると、「ちょっと何かが違えば自分が別の誰かの立場になっていた可能性がある」ということを想像させられる。

 

自分は幸福でうまくいっているが、何かが違えば自分は不幸で行き詰まっていたかもしれない。そんな他者への想像力を刺激する作品だ。この想像力こそ他者の行き着く先を自己責任で済ませがちな、今の社会に必要なものなのではないかと思う。

 

最後に

ここまで『この世界のさらにいくつもの片隅に』について僕なりの感想を書いてみた。戦争を描いた作品で、ここまで戦時下の人々の生活や行動、そこにあった物まで細かく再現している作品はなかなかないと思う。それだけでも観る価値がある作品だ。そして、ぜひこの世界の片隅で生きたすずたちの生活に触れてみてほしい。きっと、自分以外の誰かに想いを馳せる時間を持つことができるだろう。それはきっと人生を豊かなものにしてくれるに違いない。