先日、フォロワーさんにおススメしてもらった『アクト・オブ・キリング』という映画を観ました。
本作は二〇一二年に制作されたドキュメンタリー映画です。決して愉快で楽しい作品ではないのですが、善悪のこと、権力のこと、人間の愚かさなど様々な事を突きつけられる作品で、世界を知るためにもぜひ観ておいた方がいいと思ったので紹介してみます。
あらすじ
まずは簡単なあらすじを。インドネシアで一九六五年に一〇〇万人を超えるとされる大虐殺が起こる。被害にあったのはインドネシア共産党をはじめとする、共産主義者やその関係者、華僑など。(共産主義ではない人もいたとされる)
虐殺を行なったものたちは国の英雄とされテレビ出演もしている。本作は、彼らに当時の虐殺や拷問した時のことを語らせたり実際にしたことを演じさせ、カメラでその様子を撮影していく。
背景
映画のことを語る前にこの映画の背景について『インドネシア大虐殺』という本をもとに説明します。これを知っとくと本作の内容がよりスムーズに入ってきやすくなるはずです。
まず大量虐殺が起こる前にある事件が起きます。それは、九・三〇事件というものです。当時、インドネシアの大統領はスカルノでした。スカルノはあのデビィ夫人の夫ですね。(デビィさんは第三夫人)
一九六五年の九月三〇日の夜に、そのスカルノ大統領の親衛隊の配下の軍人たちが、陸軍のトップ七人の家を襲撃し、彼らを射殺、あるいは拉致して連れ出します。(のち、遺体で発見。)
この実行者たちは革命評議会と名乗ります。彼らは殺された陸軍の将軍たちがスカルノ大統領を倒そうとしていたので先に攻撃したと主張するのですが、ここで事件は終わりません。翌日の一〇月一日に、陸軍のスハルト少将(後に大統領になる)が革命評議会の率いる部隊を倒し、翌日の一〇月二日に、この事件はインドネシア共産党(PKI)によるものだと主張します。
ここからインドネシアでは報道統制がなされ、事件の首謀者であるとみなされたインドネシア共産党をはじめとする共産主義者やその関係者、華僑に対しての弾圧、虐殺が始まるというわけです。
堂々と虐殺を語る人たち
まず、本作を観て驚くのはカメラの前に登場する虐殺に関わった人たちが、あまりにも堂々と虐殺や拷問の様子を語ることです。それがとても明るくポップな感じなんで笑顔も全然ある。僕は、こういう人達の映像を今まで見たことがありませんでした。だから衝撃的だったんですね。
これまでにもドキュメンタリーなどで犯罪行為を告白する人を見たことはあります。でも、それはどこかその人から後ろめたさみたいなものを感じたし、正体は隠していたり、あるいは開き直りだったり、罪悪感をごまかして自分の行為を正当化している様子だったりしたわけです。
ところが本作に出てくる人たちは違うんですね。彼らは後ろめたさも感じていないし罪悪感もない。おそらく何なんだこれはと初見の人は思うはず。
でも、これには理由があります。まず、この虐殺はいわば「国のお墨付き」が与えられていたと言えるんですね。先ほども取り上げた『インドネシア大虐殺』にはそのことを示す以下のような記述があります。
後の一九七三年一一月八日には、検事総長のアリ・サイドは各地の高等検察庁宛ての指令に、「一九六五年にPKI関係者に対しておこなわれた殺害は、公的な利益のためのものであるから、殺害された者が共産主義者であったという証拠が提示できればそれで十分である」として殺害行為の責任は追求しないという方針を明記した。中略
殺害の現場では、当初から「殺しても咎められない」という噂は広まっており、殺害行為に対する社会的批判も罰則も、報復もおこなわれなかった。しかも、「公的な利益のため」、つまり「お国のため」の行為だったというお墨付きを得たこともあって、アルゴジョたちはいっそう勢いづいた。
引用元:『インドネシア大虐殺 二つのクーデターと史上最大級の惨劇』倉沢愛子、中央新書、
アルゴジョとは虐殺を主導した人たちのことです。イスラム系の団体の組織や、民兵、パンチャシラ青年団というギャングのような人たちが、虐殺に関わったと言われています。
彼らが共産主義者を殺すのは国のためであり、批判もされないし罪にも問われない。つまり、この虐殺に関わった人たちには「国に認められた正義の存在」というわけです。しかも、国営のテレビではその時のことを咎められることもなく、「この人たちは国の英雄なんです」ともてはやされる。
そりゃ、人殺しをポップに語れるよなと。だって、誰も彼らを批判したり捕まえたりしないんですから。そして、自分達がやったことは圧倒的に正しいと信じているわけですから。何というかそういう人たちがいるというのは、なんとなく頭ではわかってはいたけれど、いざ映像でその様子が映し出されると、頭をガツーンと殴られたような衝撃を受けるわけです。これは、人生で初めての体験でした。
時間が進むにつれて起こるある変化
誇らしげに虐殺の様子を語る彼らの様子を流すだけでも、観る人からすればインパクトがあるわけですが、本作で秀逸だなと思ったのが、「虐殺者たちに自らの行いを再現させる」という手法をとったことです。
タイトルが『アクト・オブ・キリング』というのはまさにこのこと。アクトはふりとか劇の一幕などといった意味があります。キリングは殺害なので、殺害のフリとか殺害の一幕といったところですね。つまり彼らの行いを演じさせたということです。
本作では虐殺の実行者だったアンワルという老人を中心に撮影が進んでいきます。アンワルは当時の虐殺や、拷問の様子を語り演じていくわけですが、その一方で虐殺や拷問を受ける側も自ら演じていきます。最初は、そうした役も楽しげにやっているように見えるんですが、時間が進むにつれてある変化が起きます。それはどういう変化か?
やられる側の気持ちに共感してしまったんですね。演技はお世辞にもうまいとは言えませんし、白熱した演技というわけでもありません。むしろ、かなり演技の質は低い。それでも、虐殺を受けたり拷問をされたりする役なわけですから、粗雑に扱われたりするわけです。それで、自分達に殺された人たちも今の自分と同じような気持ちだったのかなと。虐殺をした人たちの辛さとか痛みに共感してしまったわけです。
これ、多分監督さんにはそういう意図があったと思うんですよね。やられる側の立場を演じさせることで何か生まれるのではないか。そんな考えがあったんじゃないかと。で、アンワル老人はそこで、罪悪感みたいなものが芽生えちゃうんです。これ、すごいよね。
で、本作のラストにむかってですよ。この辺はぜひ実際に見てほしいところなんですが、最初は罪悪感なんか微塵も感じず、自分の行いを積極的に語っていた老人が見せる変化。それが救いでもあり悲しくもあってね。「あぁ、この人も決して極悪人だったわけじゃないんだ」と思ってしまう。
そういう人が正義という名の下に、正しさという後ろ盾を得てとんでもない数の人々の命を平気で奪ってしまう。人というのは何と恐ろしくもあり、愚かであるのか。もちろんインドネシアだけが特別なのではなく、権力による統治の仕方、その時の情勢によっては別の国でも、もちろん日本だって可能性が全くないわけではないよなと。そんなことを色々考えてしまいました。
まとめ
そんなわけで今回は『アクト・オブ・キリング』というドキュメンタリー映画を紹介してみました。
何となくわかるとは思うけど本作は決してエンタメ性の高い映画ではありません。インドネシアという国の暗い歴史に興味がないといえばそれまででしょう。見ていて胸糞が悪くなるかもしれません。
でも、こういう歴史を知ると学べることはたくさんあります。世界を知る上でとても参考になる作品だと思うので、興味がある方は是非ご覧になってみてください。
参考書籍、サイトなど