このブログを書いている日は一日雨だった。雨だなぁと当たり前のことを思いながら、窓の外に映る水溜りを眺めていると、ふと「雨のち晴れ」という言葉が頭に浮かんだ。この言葉を聞いたときに、あなたは何を考えるだろうか。単純に天気のことと思うかもしれない。
この言葉は励ましの意味で使われたりする。雨のち晴れ。雨が降っていても、いつか晴れて太陽の光が大地を照らす。今大変な状況やうまくいかない状況でもいずれ良くなる時がくる。色々なアーティストの歌詞にも入っている。僕が好きなMr.Childrenの曲には『雨のち晴れ』なんてタイトルの曲もある。何となくうまくいかない大人の男の悲哀を歌ったいい曲なので、まだ聴いたことがない人は聴いてみてほしい。
この言葉の使い方自体に違和感はない。実際、雨が降ればいずれ晴れがくる。異常気象でもない限りいずれ雨雲は去り、太陽の光が差し込む。それを人生にも当てはめる。情景をイメージしやすいし、ポジティブで意味も伝わりやすい。僕もそうだよなと頷けるメッセージだ。
でも、僕は天邪鬼なのでふとこんなことを思ってしまう。
「この言葉は今とても辛いと思っている他者への想像力を失わせてしまうのではないだろうか。」
雨のち晴れのメッセージは確かに正しい。でも、それを使うことで目の前の人の苦しみや悩みを見過ごしてしまうような気がする。どんなに辛くてもいつか良くなるよね。土砂降りの日々はいつまでも続かない。確かに実際にはそうかもしれない。そうかもしれないが、でも今はそうとは思えない人もいる。激しい雨に打たれて心も体も打ちひしがれて、晴れ間なんて期待もできない。そんな人もいるのではないだろうか。
そういう人に必要なのは、わかりやすいメッセージではなく「どうしたの?」と声をかけたり、「そもそもなんでこの人はこんなにびしょ濡れなんだろうか?」とか「なぜ、傘をさしていないのか?」と考えることではないか。つまり、相手を気遣い想像することだ。
もちろんわかりやすいメッセージは大切だ。その言葉が届いて、誰かを後押ししてくれることもあるだろう。繰り返すが雨のち晴れという言葉やその使い方自体に違和感はない。僕も好きな言葉だ。でも、そのメッセージが届かない人もいる。わかりやすいがゆえに安易にそうした言葉に頼ってしまい、それゆえに他者への想像力を失ったり、他者が発する心の叫びを見過ごしてしまう危険性もあるのではないだろうか。
なんだかまとまらないが、日記なのでまとまらないままで書き残す。