「本当にもうこの世からいなくなってしまいたい」
多分、そこまで深刻に思い悩んだ人はそう多くはないはずだ。ちょっとつらい出来事があった時とか、壁にぶつかった時に「あー、死にたいなぁ。」とか思うぐらいだろう。
僕も30年という人生を生きてきたが、ご存知の通り僕の人生はクリアファイル並にペラッペラなので、そこまで絶望的な思いをした記憶はあまりない。
ただそんな僕でもある時期だけはこの「死んでしまいたい」という思いが頭の中でグルグルとまわっていたことがある。それは僕が半分ひきこもりのような状態になっていた時だ。
今思うと大したことはない。まだ20代前半で大学を卒業したばかり。いくらでもやりようはあるはず。絶望するほどのことではないはずだ。ただ、当時の僕という男はとにかく自分の存在を否定しまくっていた。今思うとちょっと鬱っぽかったのかもしれない。
「自分には存在価値なんてものはない」
希望にあふれる大学のキャンパス内でただ一人、僕は負のオーラを放っていたように思う。自分の居場所がないような気がしていたし、一人でいる事も多くて僕は僕という存在をドンドン嫌になっていた。
その負のオーラを引きずったまま大学を卒業した僕は家に閉じこもりがちになった。自分自身を否定し、自分に自信がない状態だと自分の存在というものを社会から消したいと思うものなのだ。そのために家に引きこもるという行為は自然の流れであった気がする。
そういった状態で、ずーっと自分の存在は無価値だとか自分が嫌いとか自分に自信がなくて嫌になるなんて事ばかり考えていると、ふと「死にたいな」と思ってしまうものなのだ。
これはもう自分で自分を苛め抜いている行為としか言えない、今思うと「ドMか!!」と突っ込みたくなる位に自分をいじめていた。ただ当時はマイナス思考がマイナス思考を生み出すという負の悪循環に陥っていたから仕方のないことだったのだろう。
こういう状態になると、「死ぬ」とか「自殺」みたいな言葉が頻繁に頭に浮かんできてしまう。振り払っても振り払ってもポンと頭の中に浮かんできてしまうものなのだ。でも僕は死ななかった。なぜなのだろうか?冷静に振り返ってみると2つ理由があったと思うので、今回はそれを書いてみようと思う。
①家族、友達など自分を取り巻く人の存在があった
実はひかれると思って人に話していないのだが、一度だけ死んでしまいたいという考えから自分が住んでいる団地の一番高いところまで昇ってみたことがあった。そこから下を見おろした時に自分の周りの人がどう思うかが頭に浮かんだ。
「自分が死んだら親はどう思うだろうか?きっと止められなかったことを悔いて自分を一生責め続けてしまうんじゃないか」
「友達も悲しむだろうな‥‥‥。」
などなど。そんな事を思ったら無性に泣けてきたことを覚えている。
これだけ冷静に考えられるとしたら僕はギリギリまだ追い詰められている状況ではなかったのかもしれない。ほんとにしんどい人は衝動的に自殺を図ってしまったりするものだ。
ただ幸いなことに僕には家族がいて、少数ながら自分を気にしてくれている友達がいた。その人達の悲しむ顔とかがスーッと頭に浮かんできたのだ。そういう繋がりが僕を「死なない」という選択に引き戻してくれたと思う。
これが、逆に孤独で誰も自分の周りにいない状況だったらもしかしたら僕は違う選択をしていたかもしれない。繋がりというものはうっとうしくなる時もあるがこういう時には有効というか、必要なものだと思う。
ただ、人によっては家族との関係が悪かったり、友人があまりいないという人もいると思う。そんな時どうすればいいか??それは‥‥‥
「繋がりは別に家族や友人でなくてもいい」
と思うことだ。そして違うところに繋がりを求めること。それが大事だと思う。
以前ひきこもりの本を読んだ時にも書いたのだが、公的な機関でも民間のNPOなどでも辛い人やしんどい人をサポートしてくれる機関は意外と多い。学生ならフリースクールなどに行ってもいいだろう。別に家族や友達である必要はない。
そういうところで家族や友人ではない別の繋がりを持つ。そこで「自分のことを理解し、支えてくれる人」に会うことが出来たのならそれは立派なつながりだ。それは少数かもしれない。でも一人もいない状況よりは確実に気持ちは違うはずだ。
何かの選択肢がない場合は別の選択肢を探してみよう。このブログを見ている時点でネットにつなげられるという事だからネットを使って探すことはできるはず。世の中辛辣なことを言う人もいるが、逆に「人を救いたい」とか「苦しんでいる人をどうにかしてあげたい」という、ありがたい存在の人もいるのだ。そういう人とつながるという事も視野に入れるといい。
自分をどうしても否定してしまいがちな人は
「あなたは生きていていい」
とじかに言ってくれる、あるいはそう実感させてくれる存在とつながるといいと思う。
②本や漫画などの続きを期待していた
①の理由に比べて「くだらねぇー!!」と思われるかもしれないが、実はこっちも僕の中では大事だったと思う。
当時あまり家から出なかった僕だが、時々図書館や本屋などに出かける事もあった。
そこで僕は無心になって週刊誌、月刊誌、漫画、小説などを読み漁っていた。その時ばかりは不安感や絶望感、「死にたい」といった感情を頭の中から消すことが出来たのだ。お昼過ぎに本屋に行って気がついたら日が暮れていたなんて事もある。小説を一冊読み終えていたりもした。今思うとお店側からすればいい迷惑なのだが(笑)
漫画も1巻読めば、続きが気になるだろう。2巻、3巻と読みたくなるはずだ。週刊誌なら今週号を見れば来週号も見たくなる。
そんな感じで「次の話が気になるなー」となれば、とりあえずそれまでは生きているんじゃないだろうか??
これは別に本じゃなくてもいい気がする。たとえばYouTubeの動画とかでもいいと思う。まぁ、本屋や図書館に行くということで外に出ることにもなるし、歩いたり日の光を浴びる事で多少健康にもいいだろう。そんな理由で僕は本屋とか図書館に行くことをオススメしている。
はたから見ればくだらないと思うかもしれないが、「死なない」という選択肢を選ぶことが出来るのなら僕はどんな方法でもありだと思っている。漫画だろうが小説だろうが動画だろうが何だろうが。
どんなに下らないと思うことでもいい。そこに価値を見出したならそのためにとりあえず生きてみる。まずは死なないことが大事だ。死んだら全ての選択肢は消去されてしまう。もしかしたらあと一日生きてたら違う展開があったかもしれないのに‥‥‥。
「そんな事言えるのは本当に絶望したことがない人間のセリフだ!!」
そういいたくなる人もいるだろう。実際そうだ。僕なんかよりも人生に絶望し苦しみ抜いている人も沢山いるだろう。僕の人生はそういう人からしたらベリーイージーモードだ。
でも、そんな僕でも一時期は死にたいとか消えたいという思いを抱えてきた。そんな僕だから言っておきたい。まぁ、これは今の僕から過去の僕に言いたいことでもある。
「なにも死ぬことはないよ」
ベリーハードな人生なら遠慮なく誰かに助けてもらえばいい。恥ずかしいことなんてない。最近、色々な本を読んでさらに自分の過去を振り返ってみてふと思ったことだ。
僕の言葉なんて届かなくてもいいが、一人でも多くの人が「死なない」という選択をする事を願っている。どう考えても「自ら死を選ぶ人が少ない社会」の方がみんな幸せだと思うから。
それでは今回はこの辺で。
最後までご覧いただきありがとうございました!
次回もよろしくお願いいたします。