オバログ

日記から読んだ本や映画の感想、時事問題まで綴るブログです。弱者の戦い方、この社会がどうあるべきかも書いていきます。

ニート散歩 自然を意識できるかどうかで余裕があるかどうかが分かる気がする

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春と言えば桜。僕の地元にもお花見スポットというほどではないが、写真のような感じで桜並木で彩られた風景を見る事が出来る。

 

大学時代には地元の友人たちと花見をする事もあったが、どちらかといえば「花より団子」といった具合だった。友人達と近くのスーパーでお酒やおつまみを買い込み、近くの公園で細々と花を見ながらバカな話をするのが楽しかった記憶がある。まぁ、正直言えば桜なんて酒の肴程度にしか考えていなかったと思う。

 

ところが人というのは年月を重ねると何らかの変化が起こるのだろうか。

 

ここ数年の僕は、以前に比べて木だとか花だとか自然に目が行くようになっている。この前もチューリップの花壇を前にして「おぉーなんかきれいだなぁー!!」と柄にもなく写真を撮り、それをブログにアップしていた。10代後半から20代半ばまでの僕ならまずなかったことだ。基本的に今まで僕はこういった自然をスルーしていたと思う。

 

そんな感じで、ここ数年は地元にある桜並木についても以前とは違う見方になっていて、「無名だけどこういうほっとする自然が残っている風景っていいよなー」なんて思っている。

 

多分、忙しくて日々せかせかと動いている人ならこうはならないんじゃないだろうか。美しい自然もただそこにある風景の一つとして自分の視界を通り過ぎるにすぎない。なんだかもったいないようにも感じる。

 

別に僕は自然大好き人間でもないし、偉そうなことを言うつもりなんて毛頭ない。余計なお世話かもしれないが、仮に街中を歩いていてそこにある自然や街並み、そこにいる人々を意識できないほど頭の中を何かに支配されているとしたら、その人は忙しすぎるのかもしれない。忙しいことは悪い事ではないと思うんだけど、忙しすぎると新しいものを取り入れる余裕はないし、新鮮な発想も生まれてこないような気がしている。

 

余裕がないとやっぱり消耗すると思うし、消耗しすぎるとしんどい気がしている。消耗しすぎて動けなくなってしまわないようにしたいものだ。

 

そんな時はいったん休憩するなり、忙しさから距離を置いてみるといいのかもしれない。そうして、自然なり、街並みなりを意識できるぐらい余裕が出来てくれば新しいものも取り込めると思うし、思わぬアイデアなんかもうまれてくるんじゃないだろうか。

 

とりあえず、平均寿命は80年近くあるわけだからあまり慌てすぎなくてもいいんじゃないのなんて最近思っていたりする。まぁ、僕はのんびりしすぎているのかもしれないが。

 

「僕は逆に忙しくなさ過ぎてユルユルになっているので、少し忙しさを取り入れるべきだなー。」

 

地元の小川と桜並木を見ながらそんな事を思ったある日の昼であった。