オバログ

日記から読んだ本や映画の感想、時事問題まで綴るブログです。弱者の戦い方、この社会がどうあるべきかも書いていきます。

旅は効率よく回るか道草を楽しむか?

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 先日、大阪に行ってきた。僕のブログを定期的に読んでくれている方は「大阪っていってもお前西成のことしか書いてないやんけ!!」と突っ込みたくなるかもしれないが、実は、ちゃんと有名な観光スポットもささっとではあるが回ることができた。初めて訪れたということもあったが、改めて大阪への旅は僕の中で印象に残るものとなった。

 

関東に戻ってきてからは、とにもかくにも「西成すげぇぇぇ!西成のことを書きてぇ!」という思いが募り、西成に関連する記事を2つほど書いた。まだご覧になっていない方はそちらもぜひ読んでもらいたい。

 

参考記事:【衝撃!!】日雇い労働者の街、西成に滞在して特に印象に残ったことを3つ書いてみた!! - ニート気質な僕の生きる道

参考記事: 西成に行くなら詳しい人に案内してもらった方がより楽しめると思った!! - ニート気質な僕の生きる道

 

上の記事で僕は、「西成に行くなら詳しい人に案内してもらった方がいいよ」という内容の記事を書いた。実際、現地ではYOSHIさんという普段から西成などで飲み歩きをしている方に案内をしてもらったおかげで、自分なら普段は絶対に立ち寄らないであろう店に入ることができたし楽しい経験もさせてもらった。「詳しい人に案内してもらう」というのは外れが少ないし、実に効率のいいやり方ではあると思う。特に西成には個人経営の店が数多く、料理のクオリティや中の雰囲気については不明なところも多い。こういう場合「どの店に入れば多いのか?」と選択肢が多すぎて迷ってしまうという人もいるだろうから、詳しい人に案内してもらうというのはオススメである。

 

その一方で、僕は西成に関する記事を書きながら、大阪の観光スポットを回っていた時のことを思い出していた。新世界については、同行した知人(YOSHIさんとは別の)が案内をしてくれたが、道頓堀、アメリカ村、大阪城といった場所には誰にも案内をしてもらわずに一人で回っていた。ガイド本もネットのおススメ情報も見ず気の向くままにフラフラとあちこちを歩き回ることにしたのだ。

 

もちろん最低限の情報、「道頓堀はどこの駅にあるか?」といったものは把握している。でもあくまで最低限である。おそらく調べれば「この場所ではこの店のこの料理を食べるといいよ」という情報は山ほど出てくるだろう。でも、今回は何となくそれをしたくなかった。

 

その結果はどうだったのかというと、まず無駄な移動が多かったとは思う。何もない路地や、明らかに「この先には何もないよな」という路地に迷い込む。グルグルと同じ場所を歩くはめになったし、いつの間にか30分、1時間と時間が経ち疲労も蓄積していった。

 

だが、それでもすこぶる楽しかった。

 

道草をするように大阪をさまよった結果

観光スポットから少し外れた何もない路地裏も、ふらっと立ち寄ったお土産屋の店員のおばちゃんのベタベタな関西人トークも、思いもがけずたどり着いた飲食店を始めとしたお店の道具ばかりが売っている商店街も(後に調べたら千日前道具屋筋商店街という有名な場所だった)、なんとなく移動している人についていったら迷い込んでしまったアメリカ村も、おいしそうな匂いに誘われてはいったたこ焼き屋も、どれもこれもがいまだに自分の脳みそにしっかりと刻み込まれている。

 

なぜだろうか?それは僕が事前にほとんど情報を入れていなかったからだと思う。ほとんど無知な状態で体験したがゆえに、「えっ?こんなところにこんな場所があるのか?」とか「なるほど、こういったらここに出るんだな」といった発見の喜び、思わぬ偶然との出会いによる感動というものがあったわけだ。それが僕の中に大阪での旅を深く刻み込む要因となったように思う。

 

これがもし、事前に行く場所の情報をすべて得ていたたとしたらどうだっただろうか?はたしてこれほどまでに驚き、感動しただろうか?おそらく、「確かに本(もしくはネット)に載ってた通りだ。」という納得感は得られただろう。ただ、それは「既に知っているものを確認しに行く」だけの作業のようなものであり、そこから驚きや感動といったものにまでつながったかどうか疑問なのである。いやっ、おそらくそこまで感情的なものが内から湧き出してくることはなかったと思う。

 

それどころか、もし事前に情報を得ていたらもしかしたら僕はアメリカ村には行っていなかった可能性すらある。というのも、アメリカ村の客層というのはとても若い。おそらく10代~20代前半ぐらいまでであろう。道行く人たちを見ていても顔つきの若さ、格好の若さが一目でわかるし、そこを歩く30代前半のおじさん(僕のことだ)のなんとなくの場違いな感じもすぐにわかった。

 

おそらく、こういった情報はネットやガイド本には載っているはずだ。「アメリカ村は若者中心の街です」といった具合に。それを見たら僕はおそらくアメリカ村を回避していたに違いない。

 

大阪の原宿、あるいは竹下通りとも言うべき場所で、終日若者で溢れている。 
後述の東心斎橋と比べて通行人の年齢が明らかに若く、客の住み分けがくっきりと為されている。 

引用元:『心斎橋とは (シンサイバシとは) [単語記事] - ニコニコ大百科

 

実際ネットでアメリカ村のことを調べたら、↑のような説明文があった。

 

大阪の原宿、あるいは竹下通り‥‥‥。

 

僕は関東に住んでおり、若い頃は原宿や竹下通りの辺りにも行ったことがある。(あの頃僕も若かった‥‥‥。)あの辺りのエリアのキャピキャピ感はいくらおじさんが頑張っても出すことのできないほどばしるエネルギーのようなものが溢れている。僕のようなおじさんがあそこに近づこうものなら若者たちの好奇の目にさらされ、いたたまれなくなってしまうかもしれない‥‥‥。

 

となると、この情報を事前に得ていたら僕はおそらくアメリカ村には行かなかっただろう。住む世界が違う。その一言でジエンドだ。

 

だが、僕は今回の旅でアメリカ村を訪れた。なぜか?それは単に知らなかったからだ。それが僕から「アメリカ村は若者の街である」という余計な先入観を排除し、自然とアメリカ村に足を運ばせたのだ。そして道行く人、その辺でだべる人、店で食事をする人などを見渡して「あっ、みんなすげぇ若いじゃん。完全に場違いだな」という感想とともにアメリカ村を後にすることになるのである。

 

この「完全に場違いだな」という感想を得るのが大事なのだとも思う。実際に現地を歩いたからこそ、肌で感じることのできた場違い感、この自分が現地に身を投じることによって得たものが、自分の中に刻み込まれるのである。(僕はあの場違い感を一生忘れない)

 

そう考えると「道草を食うように旅をする」というのも、1つの愉しみ方なのかもなと思う。というか、その方が自分の中で印象に残るものになるのではないだろうか?

 

旅をする時は効率と非効率を行ったり来たりしてみては?

とはいえ、「効率よく旅をする」ということを否定したいわけでもない。僕らの寿命はある程度決まっているし、全てを非効率に道草をするように回っていては、本来行きたかったところに行けなくなってしまうだろう。人生は長いようで短い。効率さを求めることは合理的であるといえるだろう。

 

だが、その一方で今回僕が行ったような「非効率な道草をするような旅」というのも一つおススメしたい。

 

時間も体力も奪われるかもしれないが、そこには偶然との出会いがある。驚きがある。驚きの先には今回僕が味わったような感動もあるかもしれない。人が感動するのは大抵の場合「思いがけない驚き」があった場合だと思う。予想できないものを目にした時僕らの心は大きく動く。そして、それは自分の中に忘れられない記憶として刻み込まれるのだと思う。

 

ここ最近旅をしていてもあまり感動をしなくなった、旅がなんだかおもしろくなくなったという人も中にはいるだろう。そういう人はもしかしたら事前に情報を持ちすぎているのかもしれない。その場合あまり事前情報を入れすぎない「道草をするように旅をする」がオススメなので、ぜひ一度試してみてほしいと思う。