ニート気質な僕の生きる道

自分の経験を活かして、無職やニートや、ひきこもりなど自分と同じように、「生き方」や「働き方」に悩んだり立ち止まった人が前向きになったり、自分の進みたい道に一歩踏み出すきっかけになるブログを目指しています。

『夜と霧』を読んで、特に心に残った部分を紹介する!!

先日欲しいものリストからいただいた『夜と霧』の感想を書きました。

 

参考記事:『夜と霧』強制収容所から生き延びた心理学者は何を語るのか? - ニート気質な僕の生きる道

 

詳細は記事を見てもらいたいのですが、極限状態で人々がどうなってしまうのかを当事者の立場と、学者としての立場で語っている稀有な一冊だと思います。

 

今回はもうちょい突っ込んだ感想というか、「ここめちゃめちゃ響いたからどうしても紹介したい!!」という箇所があったので、その部分について紹介させてください。僕が個人的に一番グッと来た部分です。

 

生きる意味について考えさせてくれるフランクルの言葉。

ひるがえって、生きる目的を見出せず、生きる内実を失い、生きていてもなにもならないと考え、自分が存在することの意味をなくすとともに、頑張りぬく意味も見失った人は痛ましい限りだった。そのような人びとはよりどころを一切失って、あっというまに崩れていった。

引用元:『夜と霧』p129 著者 ヴィクトル・エミール・フランクル/池田香代子 みすず書房

 

著者のフランクルは、収容所内で多くの人たちが希望を失い死んでいく姿を見てきました。いつ終わるともわからない過酷で暴力的な生活は人々の精神を追い詰めます。正直、フランクルや他の収容されていた人たちが受けてきた仕打ちを見ていると「生きる目的や希望を失っても仕方がないのでは」と思わざるを得ません。

 

そんな絶望的な状況の中、生きる意味を見失い崩れていく人がいる一方で、最後までこの過酷な収容所での日々を耐え抜き、生き延びた人たちもいるわけです。フランクルはその違いに注目し、次のような考え方にたどり着いたのです。

 

哲学用語を使えば、コペルニクス的転回が必要なのであり、もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、私たち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。

生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。私たちはその問いに答えを迫られている。考えこんだり言辞を弄することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることに他ならない。

引用元:『夜と霧』p130

 

ここが僕の心にグサッと刺さったんですよね。生きることが問いかけてくる。これはどういうことなのか?僕なりに考えてみました。

 

おそらく、今この瞬間一人一人が全く違う人生を送っていることでしょう。ある人は苦境に立たされているかもしれないし、ある人は幸せの絶頂にいることもあるはずです。そのこと自体にはそれほど意味はない。むしろ、今この瞬間百人いれば百通りある人生の中で、「君はどう生きるんだ?どう生きたいんだ?」と今この瞬間の人生が僕にそしてあなたに問いかけているというわけです。

 

その問いかけにしっかりと向きあって答えを出して行動で示していくこと。身分の内面を掘り下げ、その時々でぶつかるであろう壁を前にして、「どう生きる?なぜそう生きたい?」という問いを自分自身にぶつけて解を出していく。これが生きることなのだと。

 

これはいいかえれば「人生に意味はないけど、その意味を自分で見出すことはできる」とも言えそうです。最初から人生に意味が与えられているとすると、それ自体は非常に受動的です。自分で決めたものではなく誰かから与えられたものになってしまうわけですから。だけど、自分自身でこの人生に意味を与えられたとしたら、それは主体的なものとなる。人生を受動で生きるか主体で生きるか、誰かから与えられたものとするか、自分で選び取るものとするか、その分岐点に立った時に主体的な方を選び取れた人こそが、過酷な強制収容所での日々を生き延びることができたのではないか?僕はそう思っています。(もちろん運などもあったとは思いますが)

 

もちろん僕の解釈が正しいのかどうかはわかりません。でも、生きることについて、人生について考える機会を与えてくれた本書と出会えただけでも、ものすごく価値のあることだったのではないかと思っています。欲しいものリストでプレゼントをしてくださった方、本当にありがとうございます。僕の人生においてまた一つ大事な一冊との出会いを与えてくださったことに感謝します。