時々ニュースで見聞きする「親が子を殺した。虐待死させた」という事件。目にするたびに胸が苦しくなるし、加害者の親に対して「なぜそんなことをするのか?」と憤る方もいるかと思う。
もちろん、子供をひどい目にあわせる親の責任は重大だし、犯した罪は償う必要があるが、物事には何かしら理由があると考えるのが一般的だ。つまり「子供を殺してしまったこと」にも何かしらの原因があり、それが本来愛する対象であるわが子を殺めてしまったのではないかと思うわけだ。
そんな時に見つけたのが、今回紹介する『鬼畜の家』という本だ。
本書では親が子を殺した3つの事件について取り上げている。どの事件も亡くなっていた子供たちの気持ちを想像するだけで胸がギュッと締め付けられてしまう。なぜ彼らがこんな目にあわなければならなかったのか?と憤りを感じてしまうそんな事件である。
筆者はそんな痛ましい事件の加害者である親、そしてその家族、親戚、恋人、知人、友人など様々な関係者に取材をし「事件はなぜ起きたのか?」「加害者である親たちはいったいどういう人物だったのか?」といった疑問に答えてくれている。
本書を読む中で僕なりにではあるが「親が子を殺す」という痛ましい事件が起こる際にはいくつか共通点があるなとも思ったので、本書を詠んだ感想とともにその辺りのことを読者の方達と共有していきたいと思う。
加害者が育った家庭が機能不全を起こしている
本書では3つの事件について取り上げられているが、子供を殺した親たちが育った家族というのはどこかしら問題を抱えて機能不全を起こしているなという印象を受けた。
いやっ、どこの家族も何かしら問題を抱えているとは思うのだが、本書に出てくる事件を起こした親たちの家庭というのは冷静に考えても「この家庭で育ったらもしかしたら自分もこうなってしまうのかも‥‥‥。」と感じずにはいられなかった。加害者の親たちが育った家庭環境は恵まれていないことが多い。
本書で取り上げられた事件のひとつにある男性が男の子を一人部屋に置きざりにし、そのまま餓死させた事件がある。
部屋の電気やガス、水道は料金未払いで止められており、夏場は暑く冬場はとても寒い。しかも、男は出勤時には子供を和室に閉じ込めテープで目張りをすることで子供が外にも出れないようにしていたのだ。そんな環境に小さな子供を残し自分は外に出来た恋人との生活を楽しみアパートにも戻らなかった。
これだけ聞けば「なんてひどい親なんだ!!」と思うだろう。僕も実際そう思ったし読みながらとても腹立たしい気持ちにもなった。しかし本書で加害者である男性の家庭環境を見てしまうと、とても複雑な気持ちになってしまうのだ。
事件を起こした男性は子供の頃には比較的安定した生活を送っていたらしい。父親は上場企業の工場に勤めており下に妹と弟がいたし刑期のいい時代だったそうで貧乏ということもなかったようだ。
だが彼が小学六年生の時に母親が当然重度の統合失調症になってしまった。
母親の症状はかなり重篤だった。彼女は強迫観念に苛まれ、異様なまでに日に執着するようになった。幸裕によれば、家に何十本という蝋燭を並べて火をつけ、「悪魔が来る!悪魔が来る!」と髪を振り乱しながら室内をぐるぐる回っていたという。止めようものなら、食って掛かるほどだったらしい。
引用元:『鬼畜の家 わが子を殺す親たち』 著者 石井光太 新潮社
あなたの家庭がこんな状況になったらどうだろうか?しかも、父親は家庭のことには非協力的で仕事も忙しく家にはほとんど帰ってこなかったらしい。
そうなると、家で兄弟を守ったり母親を諫めるのは長男ということになる。しかし、長男といえどまだ10代の少年である。重度の精神疾患を患い、それまでの母親とはまるで別人のような人と接しなければならない。この時の男性の気持ちとしてはかなりショックなものであったのだと思う。
そのことが影響したのか男性は事件の後半の時にこんなことを言っている。
「子供の時に母が病気で大変なことになって、それから嫌なことをすべて忘れる性格になりました」
これは実際に心理鑑定をした大学教授の人も認めていて、母親の病気というつらい現実を受け止め切れずに無意識のうちに想像力を停止することをするようになったのだと。
この前提があると事件を見る見方も変わってくる。
加害者の男性は、死亡した子供を産んだ女性と一緒に暮らしていたが、その女性はある日突然出ていってしまった。
その時から男性と小さい男児の二人で生活していくことになる。しかし冷静に考えてみてほしい。男性は働いている。しかも自営とかではなく普通に運送会社でドライバーとして働いているのだ。ドライバーという仕事はある程度長時間労働になりがちだし、日中は家を空けっぱなしにせざるを得ない。
だが男性は子供を保育園に預けるわけでもなく子供を一人家に残すことを選択したわけだ。普通なら役所に相談するなり、誰か周囲の人間に相談することを考えないだろうか?
だが、先述したように彼の場合には少年の頃の家庭環境の影響でつらい現実と向き合うことができず思考停止に陥るようになってしまった。つまり、子供と自分だけというしんどい状況であってもとりあえずなんとかなるだろうというところから先を想像することができなかった可能性があるわけだ。これがのちの悲劇につながったのではないかと本書でも述べられている。
他の事件についても、読めば読むほど家庭環境の複雑さ恵まれなさというのが少なからずこの親たちの考えや性格のようなものに影響を及ぼしているのではないかと感じた。
子供を育ててはいけない夫婦もあるのだと思う
先述した事件では子供を放置し餓死された男性のみが罪に問われているが、子供を置いて家を飛び出した女性についてもかなり綿密に取材されている。女性は女性で家族との関係で問題を抱えており、女性自身についても取材が進むにつれて「うーん‥‥‥。」と思わずにはいられなかった。
筆者は本書の中で女性の知り合いにも取材をしている。その女性が言っていた言葉がとても印象的だ。
「私、愛美佳と斎藤君は子供を産んじゃいけない夫婦だったと思ってるんです。あの二人はハァ?って思うぐらい未熟で、傍で見ていても、『本当にご飯つくって食べさせてあげられるの?』とか『オムツ取り換えてあげられるの?』っていうレベルなんですよ。斎藤君とかボーっとしてるだけで何も考えてないし、愛美佳は初めは頑張ろうとして途中でダメになっちゃった。普通だったらそれでも親としての最低の責任感みたいなのがあって、実家とか行政に相談して子供だけは何とかしようとするじゃないですか。でも、あの二人は子供がクワガタの飼育をやめるみたいに投げ出しちゃったんです」
僕も本書を読みながら「この夫婦は子育てをできる人たちではなかったのではないか」と思っていた。もちろん、世の中の夫婦というのはみんな完ぺきではないだろうし未熟な部分もあるだろう。僕だって不完全な人間だし、もし仮に結婚して子供が生まれたとしたら完璧に子育てが出来るかといわれたらそうとは言えない。
だがそれでも最低限「これは子供のために良くないな。」ということや「こうした方がいいんじゃないか?」ということは考えるし、そのために試行錯誤したり周りに相談するということはするだろう。
だが先述した夫婦をはじめ本書に登場する親たちにはそれが出来なかった。それはそもそも育ってきた家庭環境の複雑さもあるし、子育てに必要な経済力がない、子供を産み育てるということへの想像力、責任感などの欠如などが挙げられる。
客観的に見ると「子供を育ててはいけない夫婦」というか「子供を育てる能力のない夫婦」だったと言えるのではないだろうか?
実際どの事件の親たちも特に計画性もなく「子供が出来たから産む」という場当たり的な行動が見受けられた。ある事件では中絶費用がないからということで、子供を産まざるを得なくなり、それがのちの悲劇に繋がることもあった。
中絶費用がなければその先もっとお金がかかる子育てが苦労することも何となく想像は出来るはずだが、なにか対応策を打つでもなくいつの間にか中絶をできなくなるぐらい子供が大きくなってしまうのだ。
もちろん、経済的に余裕がなくてもちゃんと子供を育てる親は存在する。みんながみんなそうなるわけではないというのは念を押して伝えておきたい。
だがあらゆる面で子供を育てるには適していない、そういう人たちがいるということも、本書を読むと納得できるはずだ。
社会的なセーフティーネットが大事
先述したような子供を育てるのに向いていない夫婦の間に子供が出来たとしたらどうすればいいのだろうか?いくら気を付けたところで、様々な事情から子育てに適さない環境で子供が生まれてしまうというケースはあるだろう。
親が著しく貧困だったり、不倫の末に出来た子供だったり、そもそも親が子育てに関心がなかったり、先述したケースのように親たちが子育てをする能力がないということもあるはずだ。だが子は親を選ぶことはできない。
その場合必ずしも家庭で育てなければならないというわけではないはずだ。ある程度子供を育てるプログラムが確立されている施設で育てるという方法もあるだろうし、あるいは子供に恵まれなかったが子供を育てたいと真剣に思っている夫婦に養子に出すといったやり方もあるだろう。
実際本書のエピローグの部分でjは、特別養子縁組を支援するNPO法人が紹介されていた。そのNPOは様々な事情から中絶手術を受けられず、育てられないのに赤ん坊を産まざるをえない人たちから赤ん坊を引きとり養子に出す活動をしている。
本書で取り上げられたある事件では母親が子供を中絶することが出来ず、結果的に赤ん坊を殺し死体を家の中に隠すという事件があったが、母親がこういう施設があることを知っていれば子供を殺すこともなかったかもしれない。
子供を育てるというと、家庭にその責任を背負わせてしまいがちだ。もちろん家庭ですくすくと子どもが育つのであればそれに越したことはないだろう。だが、一言で家庭といってもそこには様々な家庭があることを僕たちは知っている。そして中には明らかに機能不全を起こしている家庭があることも知っているはずだ。
であるならば子育てを家庭に任せっきりにするのは賢い選択とは言えない。機能不全を起こしている家庭があり、明らかにその親が子供を育てられないのなら社会で育てる。
そして、そのために施設や養子の制度などを充実させ、さらにそういったものを活用するという選択肢がある。そのことを若いうちから教えてあげることも必要なことだと、本書を読みながら改めて思った。
最後に
今回は「鬼畜」の家 わが子を殺す親たちを読んだ感想を書いてみた。
読みながら亡くなった子供たちのことや、子供を殺してしまった親たちの育った環境などを目の当たりにすると、その問題の複雑さからなんともやるせない気持ちになった。
わが子を殺した親たちも、育った家庭環境が違ったらどうだったのか?と考えてしまう。もちろん家庭環境だけのせいにしてもいけないし、子を殺したことが罪であることは間違いない。だが本書に登場する親たちのように想像以上に複雑な家庭環境で育った人たちが多いのもまた事実だ。
犯罪が起きると、反射的に加害者本人の資質や性格だけに原因を求めがちだ。けれど、そういう時に僕は以前に読んだ『ドキュメント死刑囚』という本に書かれていたこの言葉を思い出すようにしている。
犯罪はある意味で社会への警告だ。その警告が読み取れない場合は、犯罪の予防はできず、社会は衰退する。
引用元:『ドキュメント死刑囚』 著者 篠田 博之 筑摩書房
もしこれから親が子を殺す事件がますます増えてくるのだとしたら、それは社会に対して何らかの警告を発しているのかもしれないなと思う。
それでは今回はこの辺で失礼します!