ニート気質な僕の生きる道

自分の経験を活かして、無職やニートや、ひきこもりなど自分と同じように、「生き方」や「働き方」に悩んだり立ち止まった人が前向きになったり、自分の進みたい道に一歩踏み出すきっかけになるブログを目指しています。

「引きこもりを里山へ」の記事を読んで考えたこと

思想家の内田樹さんが「引きこもりの人に過疎の里山に住んでもらったらいいのでは?」ということをおっしゃられていて、それを読んだ方々から様々な意見が出ているそうです。内田さんの発言は下の記事から読めます。

 

日本列島をどう守るか 過疎化に“100万人の引きこもり”が役立つワケ(文春オンライン) - Yahoo!ニュース

引きこもりの人たちに自然の侵蝕を防いでもらう?

記事を読んでもらうとわかるけど、内田さんの考えとしては人がいない里山はあっという間に自然に飲み込まれてしまう。でも、人はいるだけでそうした自然の侵蝕を防ぐ事ができる。だったら、家で引きこもっているだけの引きこもりの人たちに来て貰えばいいじゃないかという考えなわけですね。

 

まぁ、そういう発想をする人がいるのもわからなくはないけど、そもそも内田さんがおっしゃるように「人がいるだけで自然の侵蝕を防げるのか?」とも思います。自然って人がいようがいまいが容赦なくテリトリーを広げてきますよね?

 

庭のある一軒家とか想像してもらうとわかりますが、ちょっと手入れをサボるとあっという間に雑草だらけになってさぁ大変なんて状況はいくらでもありうるわけです。お年寄りとか腰を曲げて手入れをするのが大変で手がつかず草がボーボーなんて話も聞きます。そういう人はわざわざお金を払って雑草を刈ってもらったりしますよね。庭一つ考えてみても結構な労力を使って、環境を整える必要があります。それが四方を自然に囲まれた里山となると、それはもう相当なパワーが必要になる。

 

内田さんは家に引きこもってネットをしてもゲームをしていても役に立つとおっしゃっていますが、多分それだけじゃ無理なわけですよ。となると引きこもりの人たちに自発的に自然の侵蝕と戦ってもらわなきゃならない。いやっ、それなら話が違うぞってなりますよね。ネットとかゲームしてりゃいいんじゃねーのって当初の話とはだいぶかけ離れたものになる。そうなった時に、果たして引きこもりの人たちが縁もゆかりもなく、特に守る意義も感じられない里山のために行動するでしょうか?僕には甚だ疑問です。

 

むしろ場所を変えただけで家に篭り続ける可能性が高いのではないかと思います。しかも、この場合過疎化した里山なのでなかなか支援の手も届かないし、リアルな人との繋がりも作りにくいという環境で、より孤立してしまう可能性すらあるのではないかと。

 

役に立てという呪い

僕自身は「人の役に立つ」という事自体は肯定的に考えますし、引きこもりの人に限らず「人の役に立ちたい」と願う人がそのために行動を起こすのには何ら問題はないと思っています。

 

ただ、今回の記事に関しては何となくですけど、「引きこもりって社会の役に立ってないよね?だから社会の役に立つことやりなさいよ」という圧みたいなものを感じてしまうんですよね。それこそ引きこもり自衛隊に入れろとか、人手不足の農業へみたいなものに近いものを感じてしまう。とにもかくにも、役に立つことに価値を置き、役に立たなければ本人の意志とかお構いなしに役立たせようみたいな考え方が根っこにあるのではないかと。そこには引きこもりの人に対する配慮があまり感じられません。

 

当たり前だけど、引きこもりっていったって十人十色なわけだし、引きこもりになった事情だって人それぞれです。病気療養中の人もいるし、人間関係に疲れちゃったっていう人もいるでしょう。もちろん、逆に「自然豊かな場所で暮らしてみたい!」っていう人もいるかもしれない。とにもかくにも個々人の事情を考慮せず「100万人もいるんだから、里山に送れば役に立つよね」という発想は個人的にはいかがなものかなぁと思います。引きこもっている人たちを、一緒くたにした想像力の足りない考え方なのではないでしょうか。

 

それでも引きこもりを里山に送るなら?

そんなわけで僕個人は、引きこもりの人たちを里山に送ることの効果については懐疑的です。ただ、中には「自然豊かな山に住んで開拓してもいい」という人もいるでしょう。そんな時に参考になるかもと思ったのが、「山奥ニート」という存在です。

 

限界集落で月1万8000円の生活 「山奥ニート」石井あらたさんが見つけたものとは|好書好日

 

もともと引きこもりだった石井さんが、たまたま見つけたニートや引きこもり支援NPOの人に誘われて和歌山の山奥に移住したのが発端です。ところがNPOの代表が亡くなってしまったので石井さん自らが理事になって山奥での生活を開始し山奥ニートと名乗るように。その活動に共感した様々な人たちと共同生活を送っています。

 

山奥ニートと引きこもりを里山へ。何となく共通点ありそうですよね。そもそも、石井さん自身が引きこもりをされていたという事も考えると、これはほぼ一緒と言ってもいいのかもしれない。

 

ただ、本とか記事とか読んでもらうとわかりますが、石井さんも決して自分1人の力で山奥に拠点を築いたわけではないんですよね。そもそもニートや引きこもりを支援しようっていうNPOがあって、それに乗っかる形で活動を始めてる。山奥でニートを始める下地があったわけです。

 

あるいは受け入れ先の集落の人たちが受け入れるのに肯定的な人たちだったというのもあるでしょう。彼らが石井さんをはじめ移住してくる人たちを受け入れてくれたから、移住がうまくいったわけで、全ての過疎地や限界集落に住む人々がそういう考えではないはずです。田舎によっては余所者に冷たい、あるいはサポートなどは一切しないみたいな場所もあるかもしれない。そこに引きこもりの人たちを派遣してうまくやっていけるのかは疑問ですよね。

 

そして何よりも大事なのは、石井さんをはじめ山奥ニートとして暮らしている人たちは自らの意思でその場に行っているということです。自分なりに居場所が欲しいとか、誰かの役に立ちたいという思いが先にあって行動している。そこが「引きこもりを里山へ」的な考えとの根本的な違いかなと。山奥ニートは自らの意思で、引きこもりを里山へは世間や他者からの圧が強い気がするわけです。強制的とまではいかなくても、「役に立つ人になりなさいよ」という自分以外の意思がかなりの割合で介在しているように感じてしまう。そうやって引きこもりの人の意思を尊重しない考えは好ましくないと考えます。

 

もし引きこもりを里山へ送るのであれば、

 

  • 活動のサポートや地域の人たちとの関係を取り持ってくれる人がいる(NPOなど)
  • 地域で暮らす人たちが受け入れに対して肯定的であること(少なくとも拒否はしないこと)
  • あくまで引きこもりの人たちの意思が大事。(強制的、あるいは役に立たなければ価値がないという空気で動かさない)

 

こうした条件がクリアできるのならば、引きこもっている人を里山に派遣するのも一つの選択肢としてアリかなと思います。ただ、あくまで一つの選択肢としてね。みんながみんな山での暮らしが向いてるはずないし、都会のシェアハウスで暮らして人と繋がることで再び一歩踏み出そうという人だって当然いるわけで、そこはやっぱり選べるのが大事だと思います。強制になった瞬間、社会の役に立たない人間は山に置いてきてしまえという、現代の姥捨山みたいなことにもなりかねませんから。