オバログ

日記から読んだ本や映画の感想、時事問題まで綴るブログです。弱者の戦い方、この社会がどうあるべきかも書いていきます。

『火垂るの墓』は戦争の悲惨さを伝える映画ではない?

※このブログはアフィリエイト広告を利用しています。記事中のリンクから商品を購入すると、売上の一部が管理人の収益となります。

戦争について描いたアニメで有名なものといえば、ここ最近では『この世界の片隅に』が有名だが、もう一つ有名な作品を挙げるとすれば、スタジオジブリが製作した『火垂るの墓』(1988)が思い浮かぶ方も多いだろう。

 

 

原作は野坂昭如の短編小説で、映画版の監督は高畑勲がつとめている。物語は14歳の兄と4歳の妹が終戦前後の動乱期に2人だけで生きようとし、最終的には2人とも栄養失調で死んでしまうという話だ。

 

この作品を観るとどうしても「こんな風に子供たちが死んでしまうなんて戦争は悲惨だな」と思ってしまいがちだ。もちろん、そうした感想があっても不思議ではない。実際、この兄妹は戦争がなければ死んでいなかった可能性が高いだろう。だが、本作は戦争の悲惨さを伝えるのがメインの目的だったのだろうか?僕はそれだけではない気がしている。

 

清太はなぜ成仏できない?

まず、この映画には原作と大きく違うところがある。それは、「死んだ清太が霊となって自分が死ぬまでの数ヶ月間を繰り返してみている」という描写だ。僕ら映画を観る側はその描写を追いかけることで、この兄妹に何が起きたのかを知っていくことになる。

 

さらに物語のエンディング。清太が見ているのはビルが立ち並ぶ現代の神戸の街並みだ。こちらも原作にはない。清太は自らが死んだ1945年9月21日から現在まで(映画公開は1988年)成仏することもできずに、何度も何度も何度も自分が死ぬまでの出来事を見ていることになる。これ、自分が清太の立場になったと思って考えてみてほしいのだけど、拷問に等しくないだろうか?

 

もし仮にこれが戦争の悲惨さを伝えるというだけならば、わざわざこんな風に原作と違う描写を入れる必要はないだろう。それにしても、なぜ清太は死んでから40年以上も同じ場所に留まり成仏もできず、自分が死ぬまでの数ヶ月を見続けなければならないのか。それは彼の行いに何らかの問題があったということを示しているからだと思う。その結果、それは清太にとって罪となって成仏することができないのではないだろうか。

 

清太の行動を考える

実際、この映画で清太の行動を見ていると、戦争が彼を殺したというよりも「人間関係の煩わしさから逃れ、自分本位の行動をし続けたため自分と妹の身を滅ぼした」というのが見えてくる。清太と節子の兄妹は全く孤立無縁だったわけではない。むしろ、彼らの周りには手を差し伸べてくれる大人や、助けを求めれば支えになってくれそうな人たちが何人もいた。だが、清太はそれに気づかない、あるいはその助けを振りほどいてしまった。

 

いくつか具体例をあげてみる。清太は死までの数ヶ月間でこんな人たちに遭遇している。

 

  • 空襲から逃れた学校で親切にしてくれた近所の女性
  • 遠い親戚にも関わらず清太と節子を受け入れた女性
  • 親戚の家から飛び出した清太を諭し、謝って受け入れてもらうよう進言するおじさん
  • 畑泥棒で捕まった清太の罪をとがめず、解放してくれた警察官

 

特に印象的なのが親戚のおばさんとのやりとりだろう。

 

空襲によって母親が死んでしまい、兄妹2人だけになった清太と節子は、事前に世話になる取り決めをしていた親戚のおばさんの家に行くことになる。このおばさんがとても嫌な人として描かれている。清太たち兄妹の食事の量をあからさまに少なくしたり、節子が夜中に泣くと嫌味っぽく注意したりする。ある場面では疫病神だなんて言ったりもする。まぁ、正直僕が清太の立場でも「なんて嫌な人なんだ」と思うだろうし、この家から出たいという気持ちもわかる。

 

だが、これをおばさんの立場で考えるとまた違う見え方になる。まず、このおばさんは親戚とはいえかなり遠い親戚で、普段この兄妹と接点はなく繋がりが薄い間柄だ。原作によると父のいとこの嫁の実家らしい。それにもかかわらず、おばさんは清太たちに部屋や布団を用意し、量を減らしたりもしたがご飯も提供している。

 

それに時代は戦争真っ只中だ。お国のために行動するのが当たり前とされていた。そんな中、清太は特に何か家や近所の手伝いをするわけでもなく、雑誌を読んだり節子と歌を歌ったりしている。要するに、当時の価値観で言えば非国民なわけだ。その非国民がいる家は当然近所から厳しい目で見られる。憲兵などに目をつけられる可能性もある。そう考えると、多少清太たちに厳しく当たるのはしかたがないのかもしれない。まぁ、それでもすごく嫌味っぽいなとは思うが。

 

清太の罪は節子を巻き込んだこと?

結局、清太はこの嫌味なおばさんの仕打ちに耐えられず、近くの貯水池のほとりにある防空壕で節子と2人で暮らすことになる。だが、この判断が結果として2人を死に導く決定的なものになったというのがわかる。

 

これが清太1人だったなら好きにすればよかったのかもしれない。だが、清太の隣にはまだ何もできない誰かに守られるべき4歳の節子がいた。防空壕は屋根のある家に比べればあらゆる面で劣った生活環境と言えるだろう。幼い節子がいる状況で考えもなしにおばさんの家を飛び出すという行為は、客観的に見て悪手だったと言わざるを得ない。多少嫌味を言われようが、おばさんの家に留まるべきであったと思う。

 

それに、もし清太自身がどうしても親戚のおばさんの言動に耐えられないとしても、頭を下げて節子だけは家に置いてもらうということもできたはずだ。繰り返すが、おばさんは食事の量は減らしていたが、食事を提供してはくれていた。この家にいれば節子が栄養失調で死ぬ可能性はだいぶ低くなったはずだ。

 

それに、清太1人がいなくなればその分、多少節子に食べさせてもらえる量も増えるかもしれない。清太としてもか弱い節子と自分の2人分の食べ物を用意するより、自分1人だけであれば負担は少ないし生き延びれたかもしれない。

 

つまり、清太は自分のわがままと「2人だけでもやっていける」という、根拠のない楽観論によって結果的に自分と妹の身を滅ぼしたというわけだ。自分の判断で自分以外の命も巻き込んでしまった。まるで、どこかの国が始めた戦争によって自らの国を滅ぼしかけたように。あるいは、勝ち目がないにも関わらず、一つの考えにとらわれ立場の弱い部下の命を巻き込み玉砕していったどこかの国の兵士のように。

 

自分の行為で自分だけが死ぬならそれは罪ではない。だがその結果、自分以外の誰かを死なせてしまったとしたらそれは罪に問われることもあるだろう。自分の行動に妹を巻き込み死なせてしまった清太は、成仏できずこの世に囚われ続け、自分が死ぬまでの様子を見続けるという罰を受けているのではないだろうか。しかも、清太の霊の隣には節子の霊もいる。兄である自分のことを無邪気に疑いもせずに。この状況は清太からすれば相当苦しい仕打ちだ。

最後に

僕はこの作品で忘れられない場面がある。それは、物語の冒頭。既に節子は死んでいて、清太は駅構内の柱に寄りかかり息も絶え絶えの状態になっている。そこに、見知らぬ女性がやってきてスッとおにぎりを置いていくのだ。残念ながら清太には既にそれを受け取る力すらなく、やがて命が尽きてしまう。

 

このおにぎりが置かれるのも原作にはない場面で、最初はこういう厳しい時代にも優しい人もいたんだなぁぐらいにしか思わなかったのだが、物語を見終えてみるとまた別の考えが浮かんできた。それは清太に対して「狭い世界に閉じこもらなければ、こうやって君を助けてくれる人がたくさんいたんだぞ。」と突きつけているように思えるのだ。

 

君におにぎり(助け)を差し伸べてくれる人は、何人もいたじゃないか。それを君は受け取ろうとせず、煩わしい人間関係から逃れて、あの狭い防空壕に閉じこもる道を選んでしまった。だから、死んでしまったのだと。考えすぎかもしれないが僕はそう思ってしまった。

 

とはいえ、僕自身は清太の行動を責めることはできない。現代に生きる多くの人が清太のように煩わしい人間関係を逃れて生きている。特に都市部であれば人とほとんど接しなくても、お金さえあれば衣食住は手に入る。狭い世界に閉じこもってもどうにかなってしまう。誰が清太の選択を馬鹿にすることができるだろうか。清太の死は今を生きる僕たちの生き方にも何かを問いかけているように思える。

 

そもそも、清太と節子死んだのはあの時代だったからと言えるかもしれない。今ならホームレスとして炊き出しに並んだり、NPOや児童相談所に保護されたりして、2人とも生き延びられたのではないだろうか。

 

あるいは、あの親戚のおばさんも戦時下でなければちょっと口うるさいだけだったかもしれない。戦争という特異な状況や世間からの同調圧力のようなものが、清太たちに強くあたる一因であったと言えよう。

 

そう考えると、2人は間接的とはいえやはり戦争に殺されたと言えるだろう。平和だったら死ななくてもよかった2人の命。平和だったら犯さずにすんだかもしれない清太が犯した罪。それらを引き起こす戦争というものに対してどういう態度を取るか。僕らはこの物語から考えなければならないと思う。

 

参考