オバログ

日記から読んだ本や映画の感想、時事問題まで綴るブログです。弱者の戦い方、この社会がどうあるべきかも書いていきます。

さよなら、平成。こんにちは、令和。

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一応この日記を書いている今日が、平成最後の日ということでパリピではない僕は、渋谷のスクランブル交差点でワーキャーと騒ぐようなことはせず、家で「平成も終わりか」とつぶやきながら、ストロングゼロとポテトチップス濃いめのり塩味『ありがとう平成』を食べながら粛々と過ごしたいと思います。(浮かれてるやつに思いっきりハイタッチかまして手をしびれさせてやりたい欲にもかられていますが(笑))

 

ポテチのありがとう平成のパッケージ。平成に起こった代表的な出来事が載っている

 

まぁ、僕のような一般人が平成について振り返ったところで、「あっ、そうですか。」と言われるのがオチですが、誰のためというわけではなくあくまで僕自身のために平成という時代がどういうものだったのかをかるーく振り返りたいなと思います。

 

僕は昭和生まれの人間ですが、ぶっちゃけ昭和という時代の記憶はほとんどありません。というのも、生まれたのは昭和が終わる数年前ですし、物心がついて室内外かまわずキャッキャと走り回っていた時には、いつの間にか平成に突入していました。昭和天皇がなくなったとか、そんなことも記憶にはないし、僕にとって昭和は懐かしさもほとんどないあくまで自分の生まれた時代であり、自分が生きてきたのは平成であると思うわけです。

 

さて、そんな平成について振り返るといっても30年以上あります。ぷっくり丸々としたフォルムで幼稚園の先生に恋い焦がれるようなかわいらしかったはずの僕も、いつの間にか家でダンベルをフンフンと振り上げ大胸筋をぴくぴくさせながら、たまにストロングゼロでハイになるだけのしがないおっさんになってしまいました。(30年という時は残酷や)これだけの時が流れると、社会にとってもそして僕個人にとってもあまりに印象的なことが多く、「僕にとっての平成はこれだ!!」と言い切ることができないわけです。

 

それでもどうにかこうにかひねり出して、あれこれ考えてみたところ「ああ、俺ひねくれてるなぁ」という考えがパッと頭に浮かびました。それは一体どんなものなのか?自分にとって平成というのは「いろいろなものが幻想であることがよく分かった時代」だったということです。

 

例えば子供の時に僕らはこう教わります。

 

「夢を持て。夢を持つことは素晴らしい。夢はかなうんだぞ」と。

 

僕もその時はそう信じて疑わなかったし、夢をバリバリ持っていました。僕の場合「サッカー選手になりたい」という夢があったので、クラブチームに入ったり自主練習をしたりして子供時代はサッカーづけの毎日だったことをよく覚えています。小学校の卒業文集にも「将来の夢はサッカー選手です!!」なんてはっきり書いてたはずだし、ぶっちゃけなれるはずだと思い込んでいたふしすらありました。うーん、あのころ僕は若かった・・・。

 

まぁ、それも年齢を重ねるにつれて段々と現実というものが見えてきたりします。

 

「あっ、これ多分難しいな。」

「同じポジションにあんな化け物がいるのか?」

 

年齢を重ねるとなんとなく自分の実力や、ほかのチームの戦力、そしてプロになるために必要なの能力はどういったものなのかがわかるようになります。どうひいきめに見ても僕にはプロというものがはるか遠くにあるものだとわかったのです。おそらく10代の中ごろには、なんとなーく夢がかなわないことが分かり、サッカー選手になることは諦めました。

 

その後のぼくはしばらくの間というか、今でも夢というものを持ててはいません。ただそれは別に暗い話ではなくて、もはや夢を無理やり持つことは必要ないなという結論に達していて、今は自分が興味を持った分野や、「この人に協力をしたいな」ということをやったりしているので、それでいいのだと思えているからです。

 

あとはサッカー選手になるという夢を持っていたことも決して無駄ではないと思っています。多くのチームメイトに出会えたし、勝ち負けの喜びや悔しさはたぶんこの先そうそう味わえない感覚だし、自分が練習をしてうまくなっていくという過程を経たことは僕にとって素晴らしい経験でしたし、それは多少なりとも今も活きています。

 

夢がかなうことは幻想で、多くの人にとって夢は夢のままで終わる。でも夢を持つことは悪いことではない。むしろ、いろいろなものを自分に与えてくれた。平成のはじめから中ごろにかけて夢を追いかけてきた身としては、大人になった今そう思えるわけです。

 

もちろん、幻想にはいい部分も悪い部分もあります。例えば家族や友達に関する幻想。

 

「家族野絆は美しい」

「友達とは分かり合える」

「伝統ある国家のすばらしさ」

などなど。

 

どうにも、僕らが思い抱いていたものは幻想でありどっかの誰かの理想であり、思い込みであったのだと。そして、それらのことをとある時期まで僕も盲目的に信じていたのです。

 

あらゆるものに付きまとう幻想を信じ、そのおかしさに気づき、良くも悪くも影響を受けてきた平成の30年だったのだなぁと思います。まぁ、僕が良くも悪くも大人になったとも言えますね。

 

あと、もう一つ言えることがあるとすればシンプルに「現代に生まれてよかったな」ということです。

 

これはもう完全に僕個人の資質によるものですが、おそらく怠惰な僕は江戸だとか明治、大正、昭和のはじめといった時代に生まれていたとしたらとっくにおっ死んでいたに違いないからです。また死ななかったにせよ、相当肩身の狭い生活をしていただろうし、今よりも孤独だったであろうことは容易に想像がつきます。

 

ある程度、経済面で豊かになった今の時代に生まれたからこそ僕は生き延びることができた。そして、時にその中で人生に絶望することはあったけども、今だからこそ夢を持ったり馬鹿なことをしたり、フラフラしたりしながらもどうにか今日この時まで生きることができたなと思うわけです。

 

また人とつながることにおいてこれほどハードルの低い時代はないと思っています。それはもうみなさんご存知のようにネットやSNSの存在があるからです。

 

数十年前に僕のような立場の人間がいたとしたら、おそらく20代後半から30代にかけて出会ったような人たちとの出会いというのはなかったでしょう。家に引きこもりっぱなしか、近所にふらっと出かけるぐらいで世界は狭いままだったはずです。ネットやSNSにはもちろんネガティブな側面もたくさんありますが、僕にとってはポジティブなものをもたらしてくれたとも思っています。

 

そんなこんなでいろいろあった平成は終わり、時代は令和に移り変わっていきます。おそらく元号が変わってもすぐに日常が大きく変化することはないし、変化するにしてもまた数十年かけてゆっくりとじわじわと変わっていくのだと思います。どういう時代になるのか、想像もつきませんが、考えすぎてもしかたがないので、僕は僕なりに生きていくつもりです。

 

とはいえ、ここ数年は停滞感のほうが強いのでね、令和の時代は「ああ、生きててよかったぜ」と思えるようにあれこれやっていきたいっすね。自分の中でよりよい令和にしたいものです。

 

もし、令和が終わる時代に僕が生きていたとしたら、またちょろっと時代を振り返るなんてこともやってみようかななんて思っています。(俺は一体何歳になるんや!?)

 

では、今日はこの辺で。