こんな検索ワードで僕のブログにたどり着いてくれた人がいるようです。
うーん、おそらくこういうワードで検索をしてくるということは、身近な人や知り合い、もしくは何かで学校に行かない人の存在を知ってその人のことを羨ましいと思っているのでしょう。「いいな~」というワードは本当にいいなと思っているのではなく、羨ましいとかずるいなっていうニュアンスを含んでいるんじゃないかと。
確かに学校は勉強しなきゃいけないし、スクールカーストがあったりもするし、人間関係も煩わしく毎日心をすり減らしている子供がいるなんて話も聞きますから、そういう状況に身を置いている人の中には、勉強をしなくていいし、好きな時間に起きて好きなことができる(ように見える)、学校に行かない人のことを羨ましいとかずるいと思ってしまうのかもしれません。
必ずしも学校に行かないことは羨ましいとは言えないかもしれない
でも、一方でみんなが通っているところに自分が行けないという状況はしんどいかもしれません。ほらっ、人ってなんだかんだいっても自分と他人を比べてしまうものじゃないですか?となると、「あの人は普通に学校に行けてるのに、何で自分は行けないんだ‥‥‥」と人と同じことができない自分を責めてしまうなんてこともあるわけです。中にはそんな自分に負い目を感じて、家からあまり出れないなんて人もいるかもしれない。
海外だと「ホームスクール」なんて言葉があるように、学校に行かずに自宅で学習することを選択する家庭もありますよね。この場合「学校に行かない」と自らが主体的に選択をしているケースが多いかと思いますが、日本においてはまだまだ「学校に行けない」という子どもが多いんじゃないかな?
「行かない」と「行けない」は一文字しか違いませんが、前者は主体的な印象を与える一方、後者に関してはどちらかというと受動的なイメージですね。選ばざるを得なかったという感じがします。
個人的には「学校に行かない」という選択肢を増やすことが大事だと思っている
現状は、まだまだ「学校に行けない」から学校に行ってないという人が多いと思うんですよ。何らかの理由で「もう無理だ、限界だ!」って疲れ果てて学校に行けなくなっちゃうみたいな。
その状態で学校に行かなくなると、やっぱりしんどい気がするんですよね。どうしても「自分はダメなやつだ。学校に行けない落ちこぼれだ」みたいに自己否定してしまいがち。自己否定が行き過ぎるとほんとに動けなくなってしまいますから、できればそうならないようにしたい。
となると、考えるべきなのは「必ずしも学校に行くだけが選択肢じゃないよ」っていう状況にすることなんじゃないかな?あくまで学校は選択肢の一つっていう感じですね。もし、仮に学校に行ってみて「これはなんか違う。自分にはどう考えても合ってない」というのであれば、自宅とかその他の場所でもオッケーみたいな。別の選択肢も選べますよっていう状況にしちゃえば、学校に行かないことで自己否定をしてしまうことも少なくなると思うわけです。「ああ、こっちはダメだったか。じゃあ、今度はこっちでやってみるか。」みたいなね。こういう感じで気軽に学校に行くかどうかを選べるようにしてしまう。
まぁ、現状でもフリースクールとかはあるけど、それもあくまで「学校に行けない人のための場所」って感じなんだよね。あくまで学校ありきって感じで、メインは学校に行くことってなっちゃってる。学校の存在があまりにもでかいわけです。学校に行くのが当たり前です見たいな風潮はまだまだあると思います。
なのでもっと、学校の存在感を小さくしちゃう、「学校に行くのだけが生きる道じゃないよ、学校はあくまで選択肢の一つで他にも選択肢があるよ」っていう感じにしないと、これからも学校に行けなくて、自己否定をしてしまう子どもたちっていうのは増えてしまうんじゃないかなと思います。
まとめ
というわけで、今回は「学校に行かないことは羨ましいことなのか?」という内容で記事を書いてみました。
途中からかなり脱線しましたが、まぁ僕が今回言いたかったことをまとめると
- 学校に行かないからといって、必ずしも羨ましがられるいい状況にいる人ばかりじゃない
- 学校に行かないことでしんどさを感じている人もいる
- 学校はあくまで選択肢の一つであり、自分に合った道を選べるようにするともっと多くの人が生きやすくなるんじゃないか
という感じです。
まぁ、ただねそれでも「学校に行けない人はいいよなぁ。羨ましいよな」って思う人は実際に、不登校になった人の考えとか思いに触れてみるといいんじゃないかな?参考になりそうな人のブログのリンクを貼っておきます♪
単に思い込むんじゃなくて、実際になった人の思いや考えに触れてみる。それだけでも今までとはまた違った、見方や考え方ができるようになるんじゃないかなと思っています。
それでは今回はこの辺で。