オバログ

日記から読んだ本や映画の感想、時事問題まで綴るブログです。弱者の戦い方、この社会がどうあるべきかも書いていきます。

『佐々木イン、マイ、マイン』青春とは?

以前からアマゾンなどで評価が高くて気になっていた『佐々木、イン、マイマイン』という映画が、個人的に刺さった作品だったので紹介しようと思います。

 

 

 

本作は2020年の11月に公開された作品です。監督は内山拓也さん。主役の石井悠二を藤原季節さん、佐々木役を細川岳さんが演じています。

 

物語は俳優を目指し上京するも、俳優としての仕事はほぼなく燻っていた悠二が、高校時代の同級生だった多田と再会し、かつてのクラスメイトでクラスの中でとても目立つ存在だった佐々木との日々を思い出すというものです。

 

※ここからはネタバレありです

 

佐々木=青春に似た男であるがゆえに

タイトルにもあるように、主人公にとって「佐々木」という存在がこの物語の鍵となります。佐々木はサブタイトルにもあるように、青春の象徴といっていい存在です。では、青春とはどういうものでしょう。ある人にとっては懐かしいかもしれないし、ある人にとってはもう一度やり直したものかもしれない。ある人にとってはいつまでも浸っていたいものかもしれません。でも、戻りたいけど戻れない。やり直したいけどやり直せない。それが青春時代というものなんだと思います。(もちろん、青春時代になんて2度と戻りたくないという人もいます。)

 

本作の主人公である悠二もまさにそうで、俳優を目指すもうだつが上がらず、同棲している彼女とは別れ話になっているのにズルズルと一緒に暮らしていたりします。現状を肯定できないんですね。そんな時、ふと高校の同級生だった多田と会ってしまい、あの頃を思い出してしまう。あの頃とは、つまり佐々木たちと共に過ごした青春時代ですね。何も考えず家でだべったり馬鹿みたいに自転車を漕いでいたあの頃です。

 

ただ、冒頭でも書きましたが青春とはやり直したくでもやり直せないし、戻りたくても戻れないもの。青春はいつか終わりを迎え、僕らは次の段階へ進まなければなりません。いつまでも浸ってはいられないんです。悲しいけどね。

 

では、その青春の象徴のような存在である佐々木はどうなってしまうのか。青春はいつか終わるもの。そう、佐々木は死んでしまうんです。佐々木の死によって主人公の悠二は青春と別れを告げる。この青春との別れを具体的に表すシーンとして、悠二がある一本道を歩くシーンがあります。この道はかつて悠二が高校時代に佐々木、多田、木村と一緒に自転車に乗って走り抜けた道です。それを、悠二は1人で歩く。高校時代とは逆の方へ。

 

このように、青春時代という過去ではなく現実に目を向け未来に進んでいかなければならない。そんな真っ当だけど痛みの伴うメッセージを本作は僕らに伝えています。

 

ちなみに付け加えると、悠二が役者を目指したのは高校時代に佐々木からすすめられたのがきっかけだったりします。青春にはいつか別れを告げて次に進まなければなりませんが、青春はのちの自分の進む道を示してくれたり、支えになってくれることもありますね。

 

明るさの裏にあるもの

佐々木という男はとても明るいです。ペラペラとおかしなことを喋るし、見た目も天パが爆発したような頭でコミカルだし「佐々木!佐々木!」とクラスの連中がコールすれば、服を脱いで全裸になってしまうようなお調子者だったりします。(女子は当然ながらめっちゃ嫌な顔してます)

 

そんな一見すると底抜けに明るく見える佐々木ですが、家は洗濯物などでゴチャゴチャで、床に穴が空いていたりします。母親はおらず父親もたまにしか家に帰ってきません。台所を見ると食べ終わったカップラーメンのケースが積み重なっていて、調理したものを食べている形跡はありません。彼の家は貧乏なんですね。それに栄養が偏ったものしかほとんど食べていない。家には自分しかいません。とても孤独なんですね。そうなると、観ている側の佐々木を見る目も変わってきます。

 

「彼の明るさは孤独や貧乏をまぎらわそうとしているんじゃないか」

 

佐々木の明るさの裏にはいくつもの哀しみを背負っているのかもしれない。にもかかわらず、佐々木は悠二やクラスメイトたちの前ではとても明るく振る舞っている。そういう視点から見ると、友達に気を遣わせない佐々木の強さや優しさが見えてくるのではないでしょうか。同時にそれはとても悲しい。自ら道化を演じているとも言えるわけですから。でも、悠二や多田たちが佐々木の家にいっても「床に穴空いてるぞ!」と笑ったりするだけで、佐々木の抱いているものにはなかなか気づけません。高校生にそれを求めるのは酷ですよね。

 

こんなふうに青春というものはとても眩しく思えますが、一方で無知でもあるし、自分のことだけで精一杯だったりします。それゆえに誰かの痛みに気づけなかったり人を傷つけていたりもする。そんな、青春の残酷な部分も本作は描いていると思います。

 

まとめ

そんなわけで今回は『佐々木、イン、マイ、マイン』という作品を紹介してみました。単に「あの頃は良かった」と青春の明るい部分、眩しい部分を振り返るだけの作品ではなく、青春との別れに伴う痛みや、それでも次に進んでいこうというメッセージ、青春の残酷さにも気づかせてくれます。

 

多分、大人になった人たちや、それこそ今主人公の悠二と同じような立場にいる人たちにはめっちゃ響く作品だと思うので、興味があればぜひご覧になってみてください。逆に今高校生のような若い人は本作を見ることで、目の前にいる友達や知り合いに対する想像力を持ったりできるし、大人って青春時代に対してこんな風に思ってるんだなぁという理解を深める上で参考になるとも思います。そして、いずれ「あの頃に戻りてぇ」となったら、またこの作品を見直してみるといいかもしれませんね。

 

『火垂るの墓』は戦争の悲惨さを伝える映画ではない?

戦争について描いたアニメで有名なものといえば、ここ最近では『この世界の片隅に』が有名だが、もう一つ有名な作品を挙げるとすれば、スタジオジブリが製作した『火垂るの墓』(1988)が思い浮かぶ方も多いだろう。

 

 

原作は野坂昭如の短編小説で、映画版の監督は高畑勲がつとめている。物語は14歳の兄と4歳の妹が終戦前後の動乱期に2人だけで生きようとし、最終的には2人とも栄養失調で死んでしまうという話だ。

 

この作品を観るとどうしても「こんな風に子供たちが死んでしまうなんて戦争は悲惨だな」と思ってしまいがちだ。もちろん、そうした感想があっても不思議ではない。実際、この兄妹は戦争がなければ死んでいなかった可能性が高いだろう。だが、本作は戦争の悲惨さを伝えるのがメインの目的だったのだろうか?僕はそれだけではない気がしている。

 

清太はなぜ成仏できない?

まず、この映画には原作と大きく違うところがある。それは、「死んだ清太が霊となって自分が死ぬまでの数ヶ月間を繰り返してみている」という描写だ。僕ら映画を観る側はその描写を追いかけることで、この兄妹に何が起きたのかを知っていくことになる。

 

さらに物語のエンディング。清太が見ているのはビルが立ち並ぶ現代の神戸の街並みだ。こちらも原作にはない。清太は自らが死んだ1945年9月21日から現在まで(映画公開は1988年)成仏することもできずに、何度も何度も何度も自分が死ぬまでの出来事を見ていることになる。これ、自分が清太の立場になったと思って考えてみてほしいのだけど、拷問に等しくないだろうか?

 

もし仮にこれが戦争の悲惨さを伝えるというだけならば、わざわざこんな風に原作と違う描写を入れる必要はないだろう。それにしても、なぜ清太は死んでから40年以上も同じ場所に留まり成仏もできず、自分が死ぬまでの数ヶ月を見続けなければならないのか。それは彼の行いに何らかの問題があったということを示しているからだと思う。その結果、それは清太にとって罪となって成仏することができないのではないだろうか。

 

清太の行動を考える

実際、この映画で清太の行動を見ていると、戦争が彼を殺したというよりも「人間関係の煩わしさから逃れ、自分本位の行動をし続けたため自分と妹の身を滅ぼした」というのが見えてくる。清太と節子の兄妹は全く孤立無縁だったわけではない。むしろ、彼らの周りには手を差し伸べてくれる大人や、助けを求めれば支えになってくれそうな人たちが何人もいた。だが、清太はそれに気づかない、あるいはその助けを振りほどいてしまった。

 

いくつか具体例をあげてみる。清太は死までの数ヶ月間でこんな人たちに遭遇している。

 

  • 空襲から逃れた学校で親切にしてくれた近所の女性
  • 遠い親戚にも関わらず清太と節子を受け入れた女性
  • 親戚の家から飛び出した清太を諭し、謝って受け入れてもらうよう進言するおじさん
  • 畑泥棒で捕まった清太の罪をとがめず、解放してくれた警察官

 

特に印象的なのが親戚のおばさんとのやりとりだろう。

 

空襲によって母親が死んでしまい、兄妹2人だけになった清太と節子は、事前に世話になる取り決めをしていた親戚のおばさんの家に行くことになる。このおばさんがとても嫌な人として描かれている。清太たち兄妹の食事の量をあからさまに少なくしたり、節子が夜中に泣くと嫌味っぽく注意したりする。ある場面では疫病神だなんて言ったりもする。まぁ、正直僕が清太の立場でも「なんて嫌な人なんだ」と思うだろうし、この家から出たいという気持ちもわかる。

 

だが、これをおばさんの立場で考えるとまた違う見え方になる。まず、このおばさんは親戚とはいえかなり遠い親戚で、普段この兄妹と接点はなく繋がりが薄い間柄だ。原作によると父のいとこの嫁の実家らしい。それにもかかわらず、おばさんは清太たちに部屋や布団を用意し、量を減らしたりもしたがご飯も提供している。

 

それに時代は戦争真っ只中だ。お国のために行動するのが当たり前とされていた。そんな中、清太は特に何か家や近所の手伝いをするわけでもなく、雑誌を読んだり節子と歌を歌ったりしている。要するに、当時の価値観で言えば非国民なわけだ。その非国民がいる家は当然近所から厳しい目で見られる。憲兵などに目をつけられる可能性もある。そう考えると、多少清太たちに厳しく当たるのはしかたがないのかもしれない。まぁ、それでもすごく嫌味っぽいなとは思うが。

 

清太の罪は節子を巻き込んだこと?

結局、清太はこの嫌味なおばさんの仕打ちに耐えられず、近くの貯水池のほとりにある防空壕で節子と2人で暮らすことになる。だが、この判断が結果として2人を死に導く決定的なものになったというのがわかる。

 

これが清太1人だったなら好きにすればよかったのかもしれない。だが、清太の隣にはまだ何もできない誰かに守られるべき4歳の節子がいた。防空壕は屋根のある家に比べればあらゆる面で劣った生活環境と言えるだろう。幼い節子がいる状況で考えもなしにおばさんの家を飛び出すという行為は、客観的に見て悪手だったと言わざるを得ない。多少嫌味を言われようが、おばさんの家に留まるべきであったと思う。

 

それに、もし清太自身がどうしても親戚のおばさんの言動に耐えられないとしても、頭を下げて節子だけは家に置いてもらうということもできたはずだ。繰り返すが、おばさんは食事の量は減らしていたが、食事を提供してはくれていた。この家にいれば節子が栄養失調で死ぬ可能性はだいぶ低くなったはずだ。

 

それに、清太1人がいなくなればその分、多少節子に食べさせてもらえる量も増えるかもしれない。清太としてもか弱い節子と自分の2人分の食べ物を用意するより、自分1人だけであれば負担は少ないし生き延びれたかもしれない。

 

つまり、清太は自分のわがままと「2人だけでもやっていける」という、根拠のない楽観論によって結果的に自分と妹の身を滅ぼしたというわけだ。自分の判断で自分以外の命も巻き込んでしまった。まるで、どこかの国が始めた戦争によって自らの国を滅ぼしかけたように。あるいは、勝ち目がないにも関わらず、一つの考えにとらわれ立場の弱い部下の命を巻き込み玉砕していったどこかの国の兵士のように。

 

自分の行為で自分だけが死ぬならそれは罪ではない。だがその結果、自分以外の誰かを死なせてしまったとしたらそれは罪に問われることもあるだろう。自分の行動に妹を巻き込み死なせてしまった清太は、成仏できずこの世に囚われ続け、自分が死ぬまでの様子を見続けるという罰を受けているのではないだろうか。しかも、清太の霊の隣には節子の霊もいる。兄である自分のことを無邪気に疑いもせずに。この状況は清太からすれば相当苦しい仕打ちだ。

最後に

僕はこの作品で忘れられない場面がある。それは、物語の冒頭。既に節子は死んでいて、清太は駅構内の柱に寄りかかり息も絶え絶えの状態になっている。そこに、見知らぬ女性がやってきてスッとおにぎりを置いていくのだ。残念ながら清太には既にそれを受け取る力すらなく、やがて命が尽きてしまう。

 

このおにぎりが置かれるのも原作にはない場面で、最初はこういう厳しい時代にも優しい人もいたんだなぁぐらいにしか思わなかったのだが、物語を見終えてみるとまた別の考えが浮かんできた。それは清太に対して「狭い世界に閉じこもらなければ、こうやって君を助けてくれる人がたくさんいたんだぞ。」と突きつけているように思えるのだ。

 

君におにぎり(助け)を差し伸べてくれる人は、何人もいたじゃないか。それを君は受け取ろうとせず、煩わしい人間関係から逃れて、あの狭い防空壕に閉じこもる道を選んでしまった。だから、死んでしまったのだと。考えすぎかもしれないが僕はそう思ってしまった。

 

とはいえ、僕自身は清太の行動を責めることはできない。現代に生きる多くの人が清太のように煩わしい人間関係を逃れて生きている。特に都市部であれば人とほとんど接しなくても、お金さえあれば衣食住は手に入る。狭い世界に閉じこもってもどうにかなってしまう。誰が清太の選択を馬鹿にすることができるだろうか。清太の死は今を生きる僕たちの生き方にも何かを問いかけているように思える。

 

そもそも、清太と節子死んだのはあの時代だったからと言えるかもしれない。今ならホームレスとして炊き出しに並んだり、NPOや児童相談所に保護されたりして、2人とも生き延びられたのではないだろうか。

 

あるいは、あの親戚のおばさんも戦時下でなければちょっと口うるさいだけだったかもしれない。戦争という特異な状況や世間からの同調圧力のようなものが、清太たちに強くあたる一因であったと言えよう。

 

そう考えると、2人は間接的とはいえやはり戦争に殺されたと言えるだろう。平和だったら死ななくてもよかった2人の命。平和だったら犯さずにすんだかもしれない清太が犯した罪。それらを引き起こす戦争というものに対してどういう態度を取るか。僕らはこの物語から考えなければならないと思う。

 

参考

 

 

 

人生限界中年たちが『人生限界バー』を開いた結果…

2022年9月7日(水)。以前から付き合いのあるコケシさんからのお誘いで、東京都練馬区江古田にあるbar moja2にて『人生限界バー』を行なった。

 

 

bar mojaとはいわゆるイベントバーだ。イベントを開きたい人たちが場所を間借りし、一日店長としてお客さんを接客する。その際、売上が一定額を超えたら、イベントを開催した人たちにも利益が入る仕組みになっている。

 

人気のイベンターだと1日でものすごい売上を上げる一方、全く人が来ない閑古鳥状態のイベントもある。イベンター自体の人気、人脈あるいは人を惹きつける企画力などによって、売上に如実に差がついてしまうので、ある意味わかりやすいといえばわかりやすい。

 

そんなイベントバーにて、我々限界中年たちがイベントを行った。果たして結果はどうなったのか?今回は備忘録も兼ねて書いていきたい。

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『JUNKHEAD』というすごい映画について

先日、アマゾンプライムで『JUNKHEAD』という映画をみた。これがとても良かったので紹介したい。

 

Amazon.co.jp: JUNK HEAD(字幕版)を観る | Prime Video

 

本作は2021年3月に公開されたストップモーション・アニメ映画だ。ストップモーション・アニメは1コマずつ物を動かしてカメラで撮影し、それを繋げることで連続的に動いているように見せている。有名どころだと『ナイトメアービフォア・クリスマス』など知っている方も多いのではないだろうか。

 

『JUNKHEAD』の物語もキャラクターもとても僕好みなのだが、何よりも驚かされるのはその制作背景だ。なんとこの作品は監督である掘貴秀さんが、独学で7年かけてほぼ1人で作ったという狂気じみた作品なのだ。

 

1人でアニメーション作品を作った人といえば『君の名は』や『天気の子』の新海誠監督が有名だが、掘さんはその新海監督が1人で作品を作ったという話を聞いて「それなら自分も作れるかも」と思い、全く映画作りなんかしたことがないいわば素人の状態から始めたとのこと。

 

ストップモーション・アニメは1秒につき12〜24枚程度使うと言われている。(必ずしも決まってはいない)10秒なら120〜240枚。一つの動作を表現するため、1枚ごとに少しずつ物を動かしていく。それも、1箇所動かすだけならいいが、例えば人が歩くという動作の場合、手足も同時に動くわけだから何箇所も動かし、それがスムーズに動いているように見せていかなければならない。さらに、別の登場キャラクターがいて、同時に何か行なっていたとしたらそちらも動かして…。あぁ、書いているだけで気が遠くなるような作業だ。

 

そんな、手間ひまがかかることを堀さんはたった1人から始め、ほぼ1人で実際に作り上げてしまった。それは圧倒的な情熱、いや狂気じみたものが堀監督の中にあったとしか言いようがない。そんな特別な作品がこの『JUNKHEAD』なのだ。

 

話自体はディストピアだし、ちょっとグロいシーンなんかも出てくるし、キャラクターの造形は不気味(いい意味で)なので、苦手な人もいるかもしれない。だが、ストップモーションアニメで動くキャラクターはどれもとてもユニークだし、映画を観ていくうちに、この独特の世界観に引き込まれていく人は多いと思う(僕もその1人だ)。先入観に捉われずぜひ見てほしい。

 

1人で何かを作りたい人にぜひみてほしい

作品自体もそうだが、この作品は「これから何かを作ろうとしている人」「今何か作っているけどなかなかうまくいかない人」にオススメだ。

 

1人で何かを作るのは孤独なものだ。ましてや、堀監督のように全くの素人から始めるとなればうまくいかないことだって多いだろう。なかなか成果が出にくい、うまくいかなくて挫折してしまいそうになることもあるはずだ。初めは人から見向きもされないかもしれない。では、堀監督はどうだったのか?そう、多くの人と同じように色々なことに手を出してはやめてしまうという経験をしている。

 

やめたらおしまいだと思っていたので、とりあえず必ずやりきると決めていました。今まで色々なジャンルに手を出しては、全て中途半端に終わっていたんです。どのジャンルにもすごい人がたくさんいるのに、今さら自分が頑張ったところでしょうがないと考えてしまっていたんです。でも、今までやってきた色々な経験を組み合わせれば、映画を作れるんじゃないかと思い、これを実現できれば、誰も真似できないものを生み出せるかもしれないと信じて、なんとか頑張りました。

引用元:世界で絶賛されたSFストップモーションアニメ『JUNK HEAD』堀貴秀監督の狂気の才能と情熱を聞く | SPICE - エンタメ特化型情報メディア スパイス、閲覧2022年9月7日 

 

「どのジャンルにもすごい人たちがたくさんいるのに、いまさら自分が頑張ってもしょうがない」という感覚は、僕も身に覚えがあるし、読者の中にも当てはまる人がいるかもしれない。今はネットやSNSでいくらでも各ジャンルのすごい人たちを見つけることができる。初心者がいきなりその業界の第一人者の仕事を目の当たりにして自信を失ってしまう。今の社会は容易に比較ができてしまう分、初心者の心を折りやすいと言えるだろう。

 

だが、堀監督はそうした挫折を乗り越える考え方も示している。自分の経験を組み合わせてオリジナルのものを作るという発想だ。確かに世の中にはすごい人たちがたくさんいるが、彼らが自分と同じ経験をしているわけではない。それを組み合わせれば自分の武器となる可能性を秘めている。すごい人たちとはまた違うオリジナリティのあるものが生み出せるかもしれない。堀監督はそこに注目し、自分の経験を活かすことでこの作品を作り上げたというわけだ。

 

そういう点でこの『JUNKHEAD』は、これから何か作ろうとしたり、今まで色々なことを始めては挫折してきた人にとって、道標のようなあるいは希望のような作品になるのではないだろうか。堀監督が新海誠監督に刺激され作品作りを始めたように。

 

たとえ短時間では無理でも、時間をかけ手間をかければ何かを完成させられるかもしれない。長年、自分の中にあった「何か」を表現することができるかもしれない。そんな前向きなメッセージを、堀監督が描いたディストピアな世界や愛嬌たっぷりの不気味なキャラクターからそんなことを感じることができるだろう。

 

それでもきっと僕らは何度も挫折する。その度にこの作品を見返してほしいなと思う。

 

最後に

今回は掘貴秀監督の『JUNKHEAD』について書いてみた。その制作背景については色々なところで監督がインタビューに答えているので、興味があればぜひそちらも見てほしい。

 

ちなみにこの作品は3部作構想だそうで、監督の中ではしっかり続きができているとのこと。掘貴秀監督は次回どんなものを見せてくれるのか。次回作も期待しながら待ちたい。

 

参考

映画『JUNK HEAD』 公式サイト

孤高のクリエイター・堀貴秀が『JUNK HEAD』誕生秘話を語る - SCREEN ONLINE(スクリーンオンライン)

世界で絶賛されたSFストップモーションアニメ『JUNK HEAD』堀貴秀監督の狂気の才能と情熱を聞く | SPICE - エンタメ特化型情報メディア スパイス

『天気の子』新海誠のルーツにあるMacと若者へのメッセージ〈新海誠インタビュー01〉 | flick!

『この世界のさらにいくつもの片隅に』戦時下で普通の人たちはどう生きたのか?

先日、片渕須直監督の『この世界のさらにいくつもの片隅に』を観た。元々2016年に『この世界の片隅に』が上映されたが、本作はさらに40分程度の新たな場面を加えて2019年の12月に公開されたものだ。

 

 

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